源兼忠

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源兼忠
時代 平安時代中期
生誕 延喜元年(901年
死没 天徳2年7月1日958年7月19日
官位 正四位下参議
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 清和源氏
父母 父:貞元親王、母:藤原基経の娘
不明
能正能遠、女子(藤原済時室)、女子(藤原兼家室)
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源 兼忠(みなもと の かねただ)は平安時代中期の公卿清和天皇の孫で、貞元親王の子。

経歴

延喜17年(917年)に従五位下叙爵。その後備中権守三河権守侍従を歴任した。

延長9年(931年左兵衛佐に任ぜられる。承平2年(932年)には従五位上に叙され、承平5年(935年)には大和権介、承平6年(936年)には左衛門佐を務めた。承平8年(938年)には正五位下に陞叙し、天慶3年(940年)に中宮亮を兼ねる。天慶4年(941年)に従四位下に進み、近江権守春宮亮を務めた。

天慶8年(945年)に中宮権大夫を務め、翌年には正四位下左京権大夫に叙任される。その後右京権大夫に転じ、天暦5年(951年)に近江権守に任ぜられた。天暦8年(954年参議に任官し、公卿に列した。

天暦9年(955年備前権守になり、天暦10年(956年)には治部卿を兼任した。

天徳2年(958年)7月1日卒去享年58。最終官位は参議治部卿正四位下[1]。娘の一人は兼家に嫁ぎ、藤原道綱母の養女となった女子を出産した。

官歴

※以下、『公卿補任』の記載に従う。

系譜

脚注

  1. ^ 日本紀略天徳2年7月1日条
  2. ^ 或いは11月4日(945年12月11日)