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津軽信義

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津軽信義
時代 江戸時代前期
生誕 元和5年1月1日1619年2月15日
死没 明暦元年11月25日1655年12月22日
改名 平蔵(幼名)、信吉(初名)→信義
戒名 桂光院殿雪峰宗瑞大居士
墓所 青森県弘前市長勝寺報恩寺
東京都世田谷妙寿院
官位 従五位下、土佐守
幕府 江戸幕府
陸奥国弘前藩藩主
氏族 津軽氏
父母 父:津軽信枚、母:辰姫
兄弟 信義信英信隆佐田信光為盛
大道寺為久為節乾安俊、他
正室:富宇姫(慶林院・松平康久の娘)
側室:久祥院(菊御前・唐牛甚右衛門の娘)
側室:工藤氏、全久院、長泉院、他
信政信経(2男)、信章(3男)、政朝(4男)、
為定(6男)、為玄(7男)、可足(11男)、
祐興(14男)、正秘(15男)、政順(17男)、
為永(18男)、萬(土井利房正室)、
以津(戸田氏春正室のち五島盛清正室)、
八重(今大路親俊室)、美与(津軽信敏正室)
他多数
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津軽 信義(つがる のぶよし)は、江戸時代大名陸奥国弘前藩の第3代藩主。

生涯

元和5年(1619年)1月1日、弘前藩の飛び領地上野国大館で第2代藩主・津軽信枚の長男として生まれる。元和9年(1623年)、母・辰姫が死去し、江戸の弘前藩邸に引き取られた。寛永8年(1631年)、父・信枚の死去により13歳で家督を相続、異母弟の津軽信英とともに将軍徳川家光に拝謁する。

若年で藩主となったため、譜代の老臣たちと信義の近従たちとの対立を抑えられず、やがて御家騒動にまで発展した(寛永11年(1634年船橋騒動)。これは幕府の助力を得て喧嘩両成敗により、両派から多数の処罰者を出して何とか沈静化したが、このために信義は積極的な藩主権力の強化に臨んだ。正保4年(1647年)、これに反発する家臣たちの、信義を強制隠居させ、信義の異母弟・信英(母が徳川家康の養女で、旗本として取りたてられていた)を新藩主として擁立する主君押込の陰謀が発覚し、連座者は粛清された(正保の騒動)。

治績においては、強力なリーダーシップを発揮し、治水工事、津軽新田の開発、尾太鉱山の開鉱、牧場の開設など多くの功績を挙げている。また、25男26女(一説では男女合わせ38人)という多くの子女をもうけた。

明暦元年(1655年)11月25日、江戸神田邸にて死去した。享年37。跡を長男の信政が継いだ。暗君とは言われるが、死後、家臣の4人が後を追って殉死している。

辞世

春の花 秋の紅葉も いかでかは 終の嵐に あハで果つべき

津軽信義使用の駕籠(弘前城)