死者の日
死者の日(ししゃのひ)はカトリック教会で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日で、諸聖人の日(諸聖人の祭日)の翌日にあたる11月2日が死者の日となる。死者の日が主日と重なった場合も、死者の日のミサが捧げられる。カトリック教会では、ミサの聖書朗読配分が定められているのだが、死者の日に関しては固定されておらず、死者のためのミサのものから自由に選ぶ事が出来る。
かつてカトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があった。死者の日はこのような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格があった。
死者のために祈るという発想自体は古代から存在していたが、キリスト教の歴史の中で死者の日というものを取り入れたのは11世紀のクリュニー修道院の院長オド(オディロン)であるといわれている。
ペトルス・ダミアニの記した『聖オド伝』には、オドと死者の日についてこんな話がある。聖地から帰った巡礼者が嵐によってとある孤島に打ち上げられた。そこには一人の修道士が住んでいた。男はその修道士からある岩を示された。その岩のすきまから煉獄の様子が伺えるというのだ。男が覗き込むと煉獄で苦しむ人々の声が聞こえる。修道士は悪魔が「死者のために祈られると死者の魂が早く天国へいってしまうから不愉快だ」とぼやいているのも聞いたと男に語った。男は故郷に帰ると、すぐにオドに会ってその話を伝えた。そこでオドは11月2日を死者の日と定めたので、こうして死者の霊魂のために祈りを捧げる習慣が生まれた。そしてクリュニー修道院から系列修道院へとその習慣が伝えられ、やがてフランスから西欧全体へと広まった。
ヨーロッパ各国における死者の日
宗教改革の時代、イギリス国教会で死者の日が廃止されたが、ヨーロッパの国々ではプロテスタントが主流の国であっても死者の日は廃止される事がなかった。マルティン・ルターは聖書に根拠のないすべてのキリスト教伝統を廃止しようとしたが、それでもザクセン地方から死者の日の習慣を廃止するには至らなかった。死者の日は単なる教会暦の祝い日という枠を超えて、人々の文化の中に根付いていたのである。フランスでは死者の日になると墓に飾りをほどこし、ドイツでは墓に花を飾るなど地方によって独自の習慣がある。
万霊節とも呼ばれる。
プロテスタント教会では聖徒の日、諸聖徒日、召天者記念日などとして主日の礼拝を捧げる教会もある。