森忠敬

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森 忠敬
時代 江戸時代後期
生誕 寛政6年6月20日1794年7月16日
死没 文政7年6月8日1824年7月4日
改名 胆之進(幼名)、可睦(初名)、忠敬
戒名 法性院殿禅岳悟空大居士
墓所 東京都港区東麻生の瑠璃光寺
官位 従五位下、美作守、越中守、肥後
幕府 江戸幕府
播磨赤穂藩
氏族 森氏
父母 父:森忠賛、養父:森忠哲
兄弟 忠哲忠敬長篤可度可象
正室:東姫(酒井忠実の娘)
忠貫正綽(次男)、忠徳青木可寿(四男)、
可時(新田貞時、五男)、娘(森可彝室)
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森 忠敬(もり ただよし)は、播磨赤穂藩の第9代藩主。赤穂藩森家15代。

寛政6年(1794年)6月20日、第7代藩主・森忠賛の十男として生まれる。文化4年(1807年)に兄で第8代藩主の忠哲が死去したため、その養子として家督を継いだ。文化5年(1808年)8月15日に第11代将軍・徳川家斉と拝謁し、12月16日に従五位下・美作守に叙位・任官する。

文政面では、兄の忠哲が先代の事績を明らかにすべく編集していた『森家先代実録』の制作を引き継ぎ、儒学者の村上中所の監修で制作を進め、文化6年(1809年)に28巻からなる『実録』を完成させた。また忠敬は、さらに補遺の作成を命じ、文化8年(1811年)に補遺2巻も完成した。全30巻からなるこの『実録』は、戦国時代からの森家の事績を仔細に調べ上げており、現在に至っても森家のことを調べる上で重要な書となっている。

藩政においては、文化8年(1811年)と文化14年(1817年)に塩田開発を積極的に行い、塩問屋との関係強化に努めて藩財政債権を目指した。また、藩校の博文館をさらに拡張した。文化10年(1813年)に越中守に遷任し、後に肥後守に遷任する。文政7年(1824年)6月8日(異説として6月4日)に死去した。享年31。

森家譜によると、跡を長男・忠貫が継いでいる。ただし忠貫は早世したため、三男・忠徳が替え玉(表向き同一人物)として擁立され、忠貫は歴代藩主に数えられていない。