桓階

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桓 階(かん かい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。に仕えた。伯序(または伯緒)。荊州長沙郡臨湘県(現在の長沙市)の人。祖父は桓超。父は桓勝。弟は桓簒・桓彝(字は公長)。子は桓佑・桓嘉・他数名。孫は桓翊・桓陵。妻は伏氏。『三国志』に独立した伝がある。

経歴

若き日

祖父の代から長沙郡に出仕する家柄で、父は尚書を務めたため、南中において著名であった(『魏書』)。

長沙郡の功曹を務めた。当時、太守である孫堅から孝廉に推挙され尚書郎となったが、父が亡くなったため郷里で喪に服すことになった。丁度そのとき、孫堅が劉表との戦いで戦死した(襄陽の戦い)。桓階は、孫堅に受けた恩を返すため、危険を知りながら劉表に対し遺体の引き取りを請うた。劉表は桓階の行為を義と判断し、申し入れを受諾した。

その後は後任の太守である張羨に仕えた。劉表が官渡の戦いの際に袁紹に呼応する動きを見せると、張羨に対して曹操に味方することを進言し、張羨に荊州南部の郡に働きかけさせ、劉表に対して反乱を起こさせた。桓階は曹操の元に使者として赴き、曹操を喜ばせた。しかし、曹操から援軍を得ることはできず、張羨が病死すると反乱ごと鎮圧されてしまった。このため桓階は逐電することを考え、官位と自らの妻の妹を与えるという劉表の誘いを断り、病気と称して隠遁した。

曹氏に仕える

劉表死後、荊州が曹操の支配下になると、張羨に協力した功績により召し出され、丞相掾主簿・趙郡太守となった。魏が藩国として創立すると虎賁中郎将侍中にまで昇った。

曹植を寵愛する曹操に、曹丕を後継者に立てることを進言した。当時、曹植を支持する丁儀が、曹植を後継にすべく暗躍しており(「曹植伝」)、かつて曹丕を支持したことがある毛玠徐奕を誹謗することがあったため、桓階はこれを庇った。桓階には、このような他人の美点を後押しし、欠点を補強する行為があったという。

やがて尚書となり官吏の任用に当たった。曹仁関羽に攻撃され窮地に陥ると、曹操は親征を考えた。しかし桓階は「曹仁殿や徐晃殿を信じておられるのなら、御自身で援軍を率い赴かれるべきではない」と言った。このため曹操は、軍を摩陂に駐屯させるだけに留めた。

一説には、桓階が曹操に帝位につくよう勧めたが、夏侯惇の「劉備を討つまでは時期尚早」とする反対に遭って、実現できなかったという(「武帝紀」が引く『曹瞞伝』、『世語』)。

後漢から魏への禅譲に、他の群臣と共に積極的に協力した(「文帝紀」が引く『献帝伝』)。曹丕(文帝)の代には尚書令・高郷亭侯を加えられた。蜀漢からの降将である孟達とは親友であったという(「明帝紀」が引く『魏略』)。

曹丕は桓階を厚遇し、自分の子の後見役足り得る人材と考えていた。しかしまもなく桓階は重病となった。曹丕は桓階を安楽郷侯に国替えし六百戸の所領を与え、三人の子にも関内侯の位を与えた。また早世した子の桓佑にも、関内侯を追贈した。さらに桓階は危篤になると、九卿の一つである太常に任命されたが、まもなく死去した。貞侯とされ、子の桓嘉が爵位を継いだ。また弟の桓纂も散騎常侍となり、関内侯に封じられたという。

三国志演義

小説『三国志演義』では、当初は孫堅配下として登場し、孫堅が劉表軍と戦って戦死した際、その遺骸を引き取るための交渉役を与えられている。その後は史実と同様に、曹丕の王朝建国に加担。華歆王朗らと共に宮中に乗り込み、献帝に禅譲を迫ったことになっている。