柘植正俊

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柘植 正俊(つげ まさとし、天文17年(1548年[1] - 慶長16年6月2日1611年7月11日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将旗本織田信治の子であるが、『寛永諸家系図伝』では織田与四郎行正の子とされる。織田三蔵、のちに柘植平右衛門と称する。妻は丹羽氏勝の娘。子に柘植正時柘植正勝(旗本)。

生涯[編集]

はじめ三河国刈谷の水野信元に仕え、織田信長に仕えた際に津田姓を名乗るようにいわれるが、母方の柘植姓を名乗った。後に豊臣秀吉に仕える。慶長5年(1600年)に会津征伐ならびに関ヶ原の戦い徳川家康に従軍する。それまで400石を知行していたが、慶長6年(1601年)に摂津国川辺郡他で加増をされ計900石を知行し、慶長9年(1604年)には切腹した息子・正勝の所領であった500石も加えられて計1400石となった。

慶長16年(1611年)、駿府にて病没した。墓所は静岡県静岡市葵区慈悲尾の増善寺。子孫は幕末まで旗本として存続した。

脚注[編集]

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』掲載の享年からの逆算による。ただしこの生年だと、父とされる織田信治とはわずか3歳差になってしまう。

参考文献[編集]