林忠旭
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
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生誕 | 文化2年2月6日(1805年3月6日) |
死没 | 慶応3年10月20日(1867年11月15日) |
改名 | 銈次郎(幼名)→忠旭→一道(法号) |
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 |
官位 | 従五位下、播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総貝淵藩主→請西藩主 |
氏族 | 三河林氏 |
父母 | 父:林忠英 |
兄弟 | 忠起、忠旭、忠交 |
妻 | 正室:曽我助順の娘 |
子 |
忠貞(長男)、忠崇(五男)、娘(柴田勝全正室) 養子:忠交 |
林 忠旭(はやし ただあきら)は、上総貝淵藩の第2代藩主、上総請西藩の初代藩主。
生涯
文化2年(1805年)、後に貝淵藩主となる旗本・林忠英の次男として生まれる。同年、兄忠起の早世にともない嫡男となる。
嘉永3年(1850年)11月、陣屋を上総国望陀郡請西村に移す。嘉永6年(1853年)のペリー来航では海岸警備などを務めた。嘉永7年(1854年)4月27日、弟で養嗣子の忠交に家督を譲って隠居し、慶応3年(1867年)に63歳で死去した。
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