松平友著

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松平 友著
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝6年10月7日[1]1678年11月20日
死没 享保13年3月30日1728年5月8日
改名 大蔵(幼名)→友親(初名)→友著
戒名 隆興院殿
墓所 伝通院
官位 従四位下但馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣家継吉宗
尾張藩
氏族 尾張徳川家→川田窪松平家
父母 父:徳川光友、母:鈴木氏娘・梅香院
兄弟 徳川綱誠、豊姫、義行、直姫、義昌
康永馨香院、八郎太郎、友重、秀姫、能姫、万之助、仙之助、万里之助、
官之助、友著、元姫、長尊
養兄弟:定姫智姫園姫清姫
正室:正親町公通娘・生姫
側室:湯本氏娘・繁
見世姫、友淳
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松平 友著(まつだいら ともあき)は、江戸時代前期から中期にかけての川田窪松平家初代当主。官位従四位下但馬守

生涯

尾張藩2代藩主・徳川光友の十一男として誕生。母は梅香院(鈴木氏または大橋氏)、幼名は大蔵、初名は友親。

元禄6年(1693年)、5千石を賜る。元禄7年(1694年)12月18日 従五位下・但馬守に任官する。元禄11年(1698年)7月13日、見世姫が誕生する。宝永2年(1705年)、長男・代五郎(徳川宗勝)が誕生(母は側室の圓珠院・湯本氏)。結婚前であり、幕府への届け出は宝永4年(1707年)6月2日付でおこなわれる。宝永3年(1706年)11月23日、川田窪に屋敷を拝領する。この屋敷に因んで、友著の家系は川田窪松平家と呼ばれることになる。

宝永4年(1707年)7月28日 公家の正親町公通の娘・生姫(貞亮院)と婚礼する[2]正徳元年(1711年)8月、大名格として江戸城に出仕する。享保2年12月18日(1718年1月19日)、従四位下(四品)。8代将軍・徳川吉宗はこの後に数度にわたり、松平通春(徳川宗春)と共に、諸行事の参列や鷹狩の獲物の下賜など、御連枝として特別に扱う。

享保13年(1728年)3月30日、卒去。伝通院に葬られる。法名は隆興院殿。

跡を子の友淳が継いだ。後に友淳は高須松平家を継いで義淳と名乗り、さらに後には尾張本家を継いで徳川宗勝と名乗った。そのため川田窪松平家は2代で絶えることとなった。

系譜

脚注

  1. ^ 『四谷并大久保川田久保御家御系譜』(名古屋叢書三編巻一)によれば7月7日とされる
  2. ^ 柳沢吉保の側室である正親町町子は公通の妹であり、友著にとって柳沢吉保は義叔母の夫となる。