村越直吉
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 永禄5年(1562年) |
死没 | 慶長19年1月15日(1614年2月23日) |
別名 | 茂助(通称) |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 村越氏 |
父母 | 父:村越俊吉 |
妻 | 正室:筧重成の娘、継室:生駒親正の娘 |
子 | 内蔵助、吉勝、娘(日下部正冬妻) |
村越 直吉(むらこし なおよし)は、安土桃山時代の武将。徳川氏の家臣。通称は茂助(もすけ)。
生涯
永禄5年(1562年)誕生。徳川家康に仕え、駿河葛谷に300石を与えられた。
江戸幕府開設後は近江や武蔵に所領を与えられて最終的には1万石前後の領地を有した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは使者役として功績を挙げたため(後述)、その後は本多正純らと共に吏僚派のブレーンとして重用された。
慶長19年(1614年)1月15日に死去。享年53。
逸話
- 豊臣秀吉がその智勇を評価して引き抜きを図ったが、直吉は応じなかったという。
- 以後の逸話は関ヶ原の際の出来事である。
- 福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の諸大名が清洲城に集結して家康の到着を待ったが、豊臣系大名の背反を恐れる家康はなかなか出陣しようとしなかった。福島らがしびれをきらしそうになったとき、家康の使者として直吉がやって来た。直吉は当時、あまり名の知られた徳川家臣で無かったため、豊臣諸将は憤激して「内府(家康)はなぜ出陣しない」と詰め寄ると、実直な直吉は冷静に「各々方が未だに出陣されないからであり、各々方が敵と戦い向背を明らかにされれば、上様(家康)も出陣されるでしょう」とありのままを述べた。これは本来なら諸将の怒りを買ってもおかしくない発言だったが、福島らは即座に承諾して、美濃への進撃を開始したという。
- 西軍を返り忠した小早川秀秋は、戦後に己の行為を恥じてか松尾山の本陣から出ようとしなかった。しかし家康は秀秋の返り忠こそが戦勝の契機になったから自分の本陣に呼んで賞するため、直吉を使者として小早川の陣に送り、秀秋を賞したという。
- 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らが捕らえられて家康のもとに引き出されたとき、直吉は「上様からのご配慮である」として彼らに小袖を差し出した。行長と恵瓊は礼を述べたが、三成は「上様とは誰のことだ」と質問し、直吉が家康のことであると言うと、三成は「上様とは豊臣秀頼様である。内府(家康)はお前の主君に過ぎない。小袖はいらぬから持って帰れ」と怒鳴り返したため、直吉は小袖を持って引き返すしかなかったという。
参考文献
- 戦国人名事典(新人物往来社)
- 「別冊歴史読本 徳川家康 天下制覇への道」(新人物往来社)