コンテンツにスキップ

李密 (隋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Andee (会話 | 投稿記録) による 2012年4月13日 (金) 15:14個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

李 密(り みつ、582年開皇2年) - 618年武徳元年))は、中国末に割拠した群雄の一人である。

遼東郡襄平県の出身。は玄邃、法主。曽祖父は西魏柱国李弼、祖父は北周の邢国公の李曜、隋の蒲山郡公の李寛が父である。つまり、武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。

若くして大人の風があったとされる。煬帝に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『漢書』の項羽伝を架けて読んだという故事が伝えられる。

613年大業9年)に反乱を起こした楊玄感と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、翟譲たちが東郡(河南省滑県)で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。617年義寧元年)、興洛倉(河南省鞏県)を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って魏公を名乗り、永平と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、山東省から江蘇省までを勢力下に収めた。しかし、618年(義寧2年)、王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵のもとに降った。

朝からは光禄卿、邢国公を授けられたが、最期は、唐朝への謀反を誣告され、斬られた。

伝記資料

  • 旧唐書』巻五十三 列伝第三「李密伝」
  • 新唐書』巻八十四 列伝第九「李密伝」

李密を主人公にした文芸作品