楊玄感

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楊 玄感(よう げんかん、生年不詳 - 613年)は、の将軍。煬帝高句麗遠征に際して反乱を起こした。この反乱自体は失敗し、楊玄感自身は敗死したものの、これ以降、反乱が各地で口火を切り、群雄割拠を経て、隋の滅亡やの成立へとつながる切っ掛けとなった。

生涯[編集]

隋の重臣楊素の子として生まれた。隋の帝室とは別系統の楊氏で、弘農郡華陰県を本貫の地とする名族の出身であった。

楊玄感は体格雄偉で、美しい髭の持ち主であり、読書を好み、騎射も巧みであった。父の軍功により柱国の位を賜り、郢州刺史に任じられた。のちに宋州刺史に転じた。父が煬帝に疑われると、職を去った。父の死後に鴻臚卿として復帰し、父の爵位の楚国公を継ぎ、礼部尚書に進められた。しかし、煬帝に疑われたため、秦王楊浩の擁立を謀った。

吐谷渾遠征から凱旋すると、煬帝の行宮を襲撃しようと計画したが、叔父の楊慎に諫められて中止した。613年の第二次高句麗遠征のとき、黎陽で食糧輸送の官にあてられて怠業した挙げ句、煬帝にそむいて挙兵した。そのため煬帝の第二次高句麗遠征は頓挫した。楊玄感は友人で参謀でもある李密の意見を聞かず、彼が下策とする洛陽攻略の方針を選択した。楊玄感の軍は洛陽を落とすことができず、衛玄陳稜屈突通宇文述来護児らの隋軍に包囲された。楊玄感は洛陽攻略をあきらめ、関中方面に転進しようとしたが、追撃を受け、董杜原の戦いで大敗した。十騎あまりに討ち減らされて上洛に逃れようとしたが、葭蘆戍にいたって窮迫し、弟の楊積善と刺し違えて死んだ。彼の反乱そのものは3カ月あまりで鎮圧されたが、これを契機に河南山東を中心として民衆反乱が続発し、隋の屋台骨を揺るがしていくこととなった。

外部リンク[編集]