朴春琴
朴 春琴 | |
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朝鮮人支持者たちに衆議院議員当選を祝福された朴春琴(中央の人物)夫妻(1932年) | |
各種表記 | |
ハングル: | 박춘금 |
漢字: | 朴春琴 |
発音: | パク チュングム |
日本語読み: | ぼく しゅんきん |
朴 春琴(パク チュングム、ぼく しゅんきん、박춘금、1891年4月17日 - 1973年3月31日)は、朝鮮人の政治家。戦前日本の帝国議会で初の朝鮮人代議士となった。
人物
慶尚南道出身。密陽漢文書塾・日語学校で学び1906年に訪日。土木作業員から手配師となって、清水組や佐藤工業・飛島組・熊谷組などの仕事を請け負った。
その一方で在日朝鮮人の相互扶助・地位向上に力を入れる様になり、1920年に李起東(イ・ギドン、이기동)らと朝鮮人労働者相互扶助団体である相救会を結成した。相救会の活動には土木工業会や前朝鮮総督府警務局長だった丸山鶴吉から支持を受け、翌1921年には相救会を親日融和団体である相愛会に改組、自身は副会長に就任した。
1932年には当時の東京府4区(本所区・深川区)から民族名のまま第18回衆議院議員総選挙(2月21日投票)に出馬し、丸山らの応援を得て当選[注釈 1]。40歳であった、日本での生活が25年におよんだ朴の立場は皇室中心主義であった[1]。
1932年から1942年までの10年間に衆議院議員の選挙は4回あったが、朴はそのうち32年と1937年の選挙で当選し、衆議院の代議士を2期務めた。親分肌で面倒見が良い性分であったことから、地元では朝鮮人だけでなく日本人からも人気が高かったという。政治家としては、朝鮮人・在朝日本人の参政権と朝鮮人志願兵制度を請願している。翼賛選挙で落選。終戦直前には京城で大義党を結成し朝鮮独立運動家の一掃を試みるが成功しなかった。終戦後は朝鮮から日本へ脱出し、さらに大韓民国政府によって親日派民族反逆者に指名された。その後日韓文化協会を結成すると共に、在日本大韓民国民団中央本部顧問・祖国統一促進協議会で活動した。
衆議院議員としては、日本政府の朝鮮人差別を追及するなど民族的利益のためにも活動した[2]が、現代の韓国では売国奴(親日派)とみなされている。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 小熊英二『日本人の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで―』新曜社、1998年7月。ISBN 978-4788506480。
- 講談社(編) 編『昭和(2万日の全記録)第3巻:非常時日本』講談社、1989年9月。ISBN 4-06-194353-7。