木下俊程

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木下俊程
時代 江戸時代後期
生誕 天保4年2月6日1833年3月26日
死没 慶応3年8月20日1867年9月17日
戒名 文献院
墓所 東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下飛騨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂慶喜
豊後日出藩
氏族 木下氏
父母 木下俊敦、美佐
木下俊方
兄弟 俊方毛利元純俊程俊愿
柳生俊順正室、峯子、伊東祐帰正室ら
俊愿綏子
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木下 俊程(きのした としのり)は、豊後国日出藩15代藩主。官位は従五位下、飛騨守。

経歴

天保4年(1833年)2月6日、日出で生まれる。嘉永7年(1854年)8月18日、兄で先代藩主だった俊方の早世により、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月16日、従五位下・飛騨守に叙任する。藩校・稽古堂をさらに増築して致道館を創設し、武道場も新たに創設するなどして教育の普及と充実に尽力した。幕末期の幕政にはあまり関わりを持たず、藩政において外国船警備のために遠見番所を設置し、慶応元年(1865年)からは軍制改革を実施するなどした。慶応3年(1867年)5月29日に隠居し、弟の俊愿に家督を譲った。同年8月20日、35歳で江戸にて死去した。法号は文献院。墓所は東京都港区高輪泉岳寺

系譜