曾我時致
月岡芳年『月百姿 雨後の山月 時致』 | |
時代 | 鎌倉時代初期 |
生誕 | 承安4年(1174年) |
死没 | 建久4年5月29日(1193年6月29日) |
改名 | 筥王(幼名)→時致 |
別名 | 通称:曾我五郎 |
墓所 | 曾我五郎首塚(静岡県伊東市馬場町) |
氏族 | 河津氏→曾我氏 |
父母 |
父:河津祐泰 母:横山時重娘 養父:曾我祐信 |
兄弟 |
祐成、時致 養兄弟:祐綱 |
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。『曾我兄弟の仇討ち』で知られる。
安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ[1]、その後は時政の庇護の下にあったという。
建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、兄・祐成と共に父の敵・工藤祐経を殺害した。兄は仁田忠常に討たれ、時致は将軍源頼朝の宿所を襲おうとしたが捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児・犬房丸(伊東祐時)の要望により処刑された。
脚注
参考文献
- 青木晃・池田敬子・北川忠彦編 『真名本曾我物語1』(平凡社東洋文庫四六八、1987年)
- 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)