新体制運動

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新体制運動(しんたいせいうんどう)は、昭和初頭から昭和20年(1945年)の敗戦にかけての日本において約20年間、主張された政治運動。

日本におけるファシズム運動であるという認識が根強いが、あくまで天皇輔弼を目的とし、ナチス・ドイツ型の政治体制をとったわけではないため、この語は適当ではないといわれる。主に大政翼賛会に代表される。

バスに乗り遅れるな

新体制運動が進められた背景には、世界的な全体主義の台頭が挙げられる。当時、欧米諸国、とりわけソビエト連邦イタリアドイツで一党独裁による挙国一致体制が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)をしているかのように見受けられたことから、全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。

日本の知識人や支配層、軍部(陸軍)などに大きな影響を与え、特に時の首相近衛文麿は、これを世界的潮流と認識し、やがて世界は「ソ連」、「ドイツイタリア」、「アメリカ」、「日本」の四大勢力により分割支配されるだろうと予想した。そのため日本では、時流に取り残されることを恐れ、また新体制に諸問題の解決を期待する運動が高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広く使われるようになった。このことが日独伊三国同盟への道を急速に開き、1940年9月27日ベルリンにおいて条約が正式に調印された。[1]

この思想が広まった国々では共産主義ファシズムが台頭した。あくまで米国からの脅威に対抗しようとのみ考えていた日本においては、ファシズムと呼べるほどの政治思想は生まれなかったが、国難を解決し、米国の脅威から日本を防衛するために強力な全体主義体制が必要と感じた近衛は、昭和15年(1940年)、大政翼賛会を結成した。

しかし、立憲君主として天皇を戴く日本においてこの新思想は違憲であるとする勢力や、外国の政治体制を基にした新思想は天皇を戴く国家体制が世界で最も優れた政治体制であるとした国体明徴声明に反するとする勢力、天皇以外の勢力が政治の実権を有するのは天皇を軽んじてきた幕府政治の復活であるとする勢力、さらには政党政治こそが日本の国体であると主張していた一部の政治家や既得権益を脅かされることを危惧する一部官僚からの反発も大きく、大政翼賛会の理念は骨抜きにされたと言っても良く、結局のところ大政翼賛会は国家総動員法を国民に浸透させ戦時生活を支えるだけの組織であった。

脚注

  1. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版]岩波書店 〈岩波新書355〉1959年 180-181ページ

参考文献

  • 永原慶二監修、石上英一他編集『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 ISBN 978-4-00-080093-8

関連項目