戸板関子
戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5月30日) - 昭和4年(1929年)1月14日)は、日本の教育者。戸板学園の創立者。
概要
津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)、吉岡弥生(東京女子医科大学創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)、鳩山春子(共立女子大学創立者)などと並ぶ日本の女子高等教育の基盤づくりに活躍した「明治クリスチャン教育家」のうちの一人である。[要出典]
祖父は仙台藩士で天文学者・数学者の戸板一左衛門、父は漢学者の戸板善内という学者の家系に生まれる[1][2]。生まれた年に父を亡くし、母の手で育てられた[1]。仙台の松操女学校で学び[1]、18歳で小学校教員となる[1][2]。自らの知識を磨くために上京して横浜のフェリス女学校に入学する一方[1]、フェリス女学校、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫教師を務めた[1][2]。1893年(明治26年)鳥居坂教会の武田芳三郎牧師と結婚し家庭に入るが[1]、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻る[1]。後に芳三郎と和解し、芳三郎が戸板家に入ることとなった[1]。
1902年(明治35年)戸板裁縫女学校を創立[1][2]。当時一般的だった1対1の教授方法ではなく、西洋式の教育法から考案した「分解式一斉教授法」での合理的な授業によって、裁縫技術のスピード化を図った[1][2]。1916年、三田高等女学校(現 三田国際学園中学校・高等学校)を開校する[1][2]。そのほか、三田博和女学校、大森南女学校、城南女学校、大森高等女学校を設立し、校長に就任した[1]。
娘の青木あさも教育者で、戸板学園理事長を務めた。もう一人の娘、山口ひさの結婚にあたって、男子が生まれたら戸板姓を継がせる約束を交わしていた。その子が演劇評論家・作家の戸板康二である。[要出典]
著書
- 『新式実用戸板裁縫全書』広文堂書店、1917年
参考文献
- 『日本人名大辞典』講談社、2001年
- 『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年