戦艦バウンティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。WikitanvirBot (会話 | 投稿記録) による 2011年12月12日 (月) 17:11個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: fi:Kapina laivalla (vuoden 1962 elokuva), pl:Bunt na Bounty (film 1962))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

戦艦バウンティ
Mutiny on the Bounty
監督 ルイス・マイルストン
脚本 チャールズ・レデラー
製作 アーロン・ローゼンバーグ
出演者 マーロン・ブランド
トレヴァー・ハワード
リチャード・ハリス
ヒュー・グリフィス
音楽 ブロニスラウ・ケイパー
撮影 ロバート・L・サートレス
編集 ジョン・マクスウィーニー・Jr
配給 MGM
公開 アメリカ合衆国の旗 1962年11月8日
日本の旗 1962年12月22日
上映時間 178 分(イギリス版は 185 分)
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
興行収入 約1900万ドル(当時)
前作 戦艦バウンティ号の叛乱(1935年)
次作 バウンティ/愛と反乱の航海(1984年)
テンプレートを表示

戦艦バウンティ』(せんかんバウンティ、原題: Mutiny on the Bounty)は、1962年MGM製作のアメリカ映画。マーロン・ブランド主演、ルイス・マイルストン監督、チャールズ・レデラー脚本。

チャールズ・ノードホフとジェームズ・ノーマン・ホールによる同名の小説(1932年)の映画化であり、軍艦「バウンティ」で艦長ウィリアム・ブライに対し航海士フレッチャー・クリスチャンによって現実に起こされた反乱(バウンティ号の反乱)を再現している。同じ小説を原作とする1933年の『In the Wake of the Bounty』および1935年の『戦艦バウンティ号の叛乱』に続く3度目の映画化である。

『戦艦バウンティ』は、ウルトラパナヴィジョン70によるワイドスクリーンで撮影された最初の映画である(映画のクレジットに拠る)。

あらすじ

1787年、「バウンティ」はウィリアム・ブライ艦長(トレヴァー・ハワード)の指揮の下に、イギリスからタヒチ島に向けて出帆した。その任務はパンノキの実をジャマイカへ輸送することであり、この任務がうまくいけば、西インド諸島奴隷に安価な食物を提供できるはずだった。困難な航海の途上、士官や兵に対するブライの無慈悲な扱いに対し、副長フレッチャー・クリスチャン海尉(マーロン・ブランド)は強く反対するが、ブライはやり方を変えようとしなかった。

「バウンティ」が着いた目的地は熱帯の楽園であり、乗組員は安楽な生活と望みのままになる美女とにおぼれていった。クリスチャン自身も、マイミチ(タリタ)との恋に落ちた。この安楽さと、再びブライの支配下での厳しい規律の長旅が始まるという予測は、水兵ジョン・ミルズをはじめとする水兵たちを反乱へと導き、クリスチャンもしぶしぶそれに同意した。ブライと彼に忠実なわすかな乗組員は、小型ボートで流された。

クリスチャンは、乗組員の恋人たちを迎えにタヒチに戻り、イギリス海軍の報復から逃れるため遠いピトケアン島に向うのだった。

キャスト

史実との相違

この映画の物語は歴史的にあまり正確なものではない。

  • 映画では、ブライとフレッチャーは初めて会ったことになっているが、実際には、彼らは以前に一緒に航海したことがある。
  • クリスチャンは士官でなく、実際には航海士(准士官)である。
  • 反乱は実際にはブライが眠っている時に起きたが、映画では目の前で起きたことになっている。
  • クリスチャンは映画の最後でイギリスに帰国しようとし、それを恐れた仲間が「バウンティ」に放った火災で死ぬが、実際にはピトケアン島で数年暮らした後殺害されている。(数年後にイギリスに帰国したと考える者さえいる。)

表彰

この1962年版の映画は作品賞を含む7部門でオスカーの候補となったが、いずれも受賞は逃した。

トリビア

  • この映画はマーロン・ブランドの過激な行動で撮影中から伝説になった。ピーター・マンソーの書いた伝記によると、ブランドは友人のタヒチでの結婚式の飾り付けのために撮影スタッフを行かせたり、自分のパーティーのために高価な食べ物と飲み物を飛行機で取り寄せたりした。
  • ブランドは過度の食べすぎにより、衣装部から52本のズボンをもぎ取った。
  • ブランドは後日、マイミチ役を演じたタリタ・テリピアと実際に結婚した。
  • 映画のためにバウンティ号の動くレプリカが製作されたが、それは物語の終わりで燃やされることになっていた。ブランドはその予備が作られない限り映画撮影を続けることを拒否した。監督とプロデューサーは結局折れ、燃やすための複製を造って元の複製は残した。オリジナルは今日もまだ存在し、2007年夏にはイングランドのいくつかの港を訪問した[1]