崖山の戦い
崖山の戦い | |
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モンゴル・南宋戦争中 | |
戦争:モンゴル帝国の南進 | |
年月日:1279年5月21日 | |
場所:主に広東省 | |
結果:モンゴル帝国(元)の圧勝、南宋の滅亡 | |
交戦勢力 | |
モンゴル帝国(元) | 南宋 |
指導者・指揮官 | |
張世傑 | |
戦力 | |
20,000~ | 250,000~ |
損害 | |
少数 | 大多数 |
崖山の戦い(がいざんのたたかい)は、1279年3月19日(祥興2年2月6日)に中国大陸の広州湾で、モンゴル帝国(元)の軍勢が南宋の海軍を破った戦いである。この戦いで南宋は敗北、最後の皇帝衛王は宰相陸秀夫ととも入水し、名実ともに南宋は滅亡した。
概要
クビライ率いるモンゴル帝国(元)は1276年に南宋の首都・臨安(杭州)を落とし、南宋皇帝の恭帝は降伏した。これで、南宋は滅亡した。
しかし陸秀夫、文天祥、張世傑や陳宜中など、一部の南宋の遺臣たちは、臨安陥落と同時期に南宋の皇子を皇帝に奉戴し、元に対する抵抗運動を続けた。モンゴル帝国軍(元軍)はそれを破っていく一方で、泉州の実力者で海上交易で富を蓄えた蒲寿庚を取り込むなど、華南地域を支配下に置いていった。
次第に江南から広東へと追い詰められた南宋軍は、船団で海上を漂流しながら抵抗を続け、現在の香港周辺にある、涯山という当時何もなかった島に砦と行宮を構築し、徹底抗戦の構えを見せた。一方、元軍は蒲寿庚から船舶や熟練の水夫の提供を受けており、不慣れな海上でも旧南宋艦隊を追跡し、戦いを有利に進めていった。元側の記録によると、南宋艦隊は1000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火のため船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付けて防御網とし、油を注いで火攻めを図る元軍を破ったという。
しかし1279年2月半ば、長い消耗戦に疲れ切った南宋軍は敗走した。やがて絶望した家臣や幹部たちが次々と入水していく中、陸秀夫は幼帝に「大学」の講義を船内でしていた。しかし2月6日の昼過ぎ頃には敗北を悟り、皇帝を抱いて入水した。これをきっかけに戦闘は終結し、元軍の勝利が確定した。
その後
崖山から脱出した張世傑は、再起を図るためベトナムへ向かう途中、嵐に遭って船が転覆し、溺死した(1279年)。陸上で抵抗運動をしていた文天祥は、この戦い以前の1278年にモンゴル帝国に捕縛され、大都(今の北京)に護送された。元朝では優れた文人である彼を登用するために説得を繰り返したが、彼は頑なに拒否し続け、獄中で『正気の歌』を詠みつつ1282年に刑死した。