山崎長徳

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山崎 長徳
山崎長徳肖像(常松寺所蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文21年(1552年
死没 元和6年11月11日1620年12月4日
改名 小七郎(幼名)→長徳→閑斎(号)
別名 長鏡、通称:庄兵衛
官位 長門
主君 朝倉義景明智光秀柴田勝家前田利家利長
氏族 山崎氏
父母 父:山崎吉延?
長国長郷光式
亀(奥村栄明正室)、青山長正
養子:長鏡
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山崎 長徳(やまざき ながのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

出自

山崎氏の出自については、松原信之の唱える「越前国に官吏として赴任した藤原氏の末裔」説[1]や、山崎家伝承による「村上源氏赤松氏流の末裔」説[2]など諸説がある。

生涯

天文21年(1552年)、誕生。当初は朝倉義景の家臣として仕えた。義景の宿老だった山崎吉家の縁戚に当たるともいわれ、父は吉家の弟・山崎吉延ともいわれるが、詳しいことはわかっていない[3]朝倉氏織田信長によって滅ぼされると明智光秀に仕え、天正10年(1582年)の本能寺の変山崎の戦いにも参加した。

光秀が山崎の戦いで死去すると、越前国柴田勝家に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは勝家の家臣・佐久間安政の許で戦った。勝家が死去すると前田利家、次いで前田利長に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは加賀国大聖寺城山口宗永山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、戦後に利長から1万4,000石の所領を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも、冬・夏の両陣に参戦している。

なお、息子の長郷の妻は、前田利家息女・豪姫の娘で、前田利長養女となった女性(理松院(貞姫・佐保姫))であったという[4]

元和6年(1620年)、死去。享年69。槍術に優れていたといわれている。

子孫

幕末期に加賀藩家老山崎範古(やまざきのりひさ)[5]を輩出した山崎宗家の加賀藩士山崎庄兵衛家[6]を初め、その分家である大聖寺藩士山崎権丞家[7]、さらには山崎権丞家から分知分家した山崎図書家[8]などが現在まで続いている。

関連項目

脚注

  1. ^ 松原信之著『越前朝倉氏の研究』(三秀舎 , 吉川弘文館 (発売), 2008.5)p.333
  2. ^ 山崎範古編『山崎家譜』加越能文庫
  3. ^ 山崎七郎左衛門吉延については、岡山県成羽に伝わる近江山﨑氏の家譜に〈近江山﨑氏から七郎左衛門吉延が越前山崎氏に養子入りした〉という伝承記事あるも、加越能文庫の『山崎家譜』にはそれを裏付ける記述見当たらず。つまり、そこから推測するに、近江山﨑氏出身の七郎左衛門吉延が越前山崎氏の山崎吉家の妹と結婚して越前山崎氏に婿養子入りした可能性も考えられる。
  4. ^ 大西泰正編著『前田利家・利長』(シリーズ織豊大名の研究3)戎光祥出版, 2016.8, p81参照。
  5. ^ 山崎範古(のりひさ)はもともとは山崎権丞家の生まれ。権丞家五代目権丞無一(権丞家三代目権丞清記の三男。無一の実兄であり清記の長男、権丞家四代目権丞伊織が亡くなったため権丞家を継いだ。)の庶子として生まれたため、最初は一門の図書家二代目図書小三郎(無一の実弟。権丞家三代目権丞清記の五男。なお、山崎図書家初代図書長考は権丞家二代目権丞の四男。)のところに養子として入るも、宗家の山崎庄兵衛家当主を先に継いでいた無一長男の実兄伊織が早逝したため、急遽図書家後嗣の立場を離れて山崎庄兵衛家当主となり、後に加賀藩家老に任ぜられた。ちなみに、図書家の跡目は、大聖寺藩士斎藤忠兵衛家の後嗣養女となった権丞家三代目権丞清記の娘が婿養子寺西新蔵改め二代目忠兵衛を迎えて産んだ息子三代目忠兵衛の三男、つまり、権丞家三代目権丞清記の外曽孫が山崎図書家へ養子に入り、三代目図書となった。
  6. ^ 1万4000石、のちに減知に遭い5500石。菩提寺は石川県金沢市野町の曹洞宗常松寺、墓所は野田山の山崎家墓地。
  7. ^ 1000石、菩提寺は石川県加賀市大聖寺の法華宗本光寺、墓所は境内墓地。
  8. ^ 200石、菩提寺は加賀市大聖寺の法華宗本光寺、墓所は境内墓地。

出典