女堀
女堀(おんなぼり)は、群馬県赤城山南麓にある中世の水利遺跡[1] 。赤城山の南側にある標高100mの等高線に沿う形で、前橋市上泉町から伊勢崎市国定町までの東西12km・幅20mにわたって築かれた溝である。平安時代後期に造られた未完成の用水路跡と推定されている。一部が国の史跡に指定されている。
概要
伝承では、女性が簪で一夜で掘った溝の跡であるとか、推古天皇や北条政子の命令で掘られた溝の跡であるなどと言われてきた。また、「女堀」という呼称も元は「媼堀」が正しく、「媼=役に立たない」の意味と解する説もある[2]。現在ではそのほとんどが埋没したり、水田などに転用されているが、前橋市富田町・二之宮町・飯土井町などの、比較的保存のよい部分が断続的に国の史跡に指定されている。1979年(昭和54年)以後に行われた発掘調査では一部区域が1108年(天仁元年)の浅間山の噴火の影響で埋没した土地を掘っていることが判明しており、12世紀中期のものと考えられている。利根川もしくは赤城山麓の河川から淵名荘もしくは新田荘方面に水を流す目的で造営されたと考えられているが、主として秀郷流藤原氏の支配地を通ることから、同流一族の複数の豪族が利根川から淵名荘に向けて用水路を掘って一門の支配地に水を分配する計画であったものの、技術的な問題で完成できなかったと推定されている。また、近年では現地の有力な武士であった義国流河内源氏と秀郷流藤原氏が12世紀中期から土地支配を巡って次第に対立関係に陥った事(代表的な例として源姓足利氏と藤原姓足利氏が足利荘の支配巡って争った事件など)が工事を中断に追い込んだとする見方がある[3]。
また、群馬県内や埼玉県[4]においても類似の「女堀」が確認されており、関連性が注目されている。
脚注
- ^ 女堀
- ^ 峰岸『日本歴史大事典』。
- ^ 須藤聡「北関東の武士団」 (初出:『古代文化』第54巻6号(2002年)/所収: 田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2)
- ^ 小野義信 1996
参考文献
- 能登健「女堀」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)ISBN 978-4-582-13101-7)
- 峰岸純夫「女堀」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9)
- 峰岸純夫「女堀」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-095-23001-6)
- 『図説 日本の史跡 第4巻 古代I』、同朋舎、1991 (ISBN 978-4-810-40927-7)
- 小野義信「川越・的場の女堀の意義」『研究紀要』第18号、埼玉県立歴史資料館、1996年、41-48頁、ISSN 03877876。
関連項目
- 足利俊綱-女堀造営に関与したとされている。