奥平昌邁

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奥平昌邁

奥平 昌邁(おくだいら まさゆき、安政2年4月1日1855年5月16日) - 明治17年(1884年11月26日)は、豊前中津藩の最後(第9代)の藩主。中津藩奥平家13代。官位は従五位下、美作守。伯爵

生涯

伊予宇和島藩主・伊達宗城の四男として生まれ、文久3年(1863年)5月、奥平昌服の養子となる。慶応4年(1868年)5月、養父昌服の隠居により、家督を相続する。明治2年(1869年)、明治維新の精神に従い、斬新的な藩政改革に取り組んだ。特に人材登用などでは選挙法を採るなど、家格に基づく世襲法を打破した新しい方法を取り入れた。同年、版籍奉還により中津藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県後、維新の功により賞典禄2000両を受けて伯爵となる。

その後、江戸に東上して慶應義塾に入学した。元藩士であった福澤諭吉小幡篤次郎アメリカ留学を勧められ、ニュージャージー州ニューブランズウィック地区に留学する。明治5年(1872年)2月20日の福澤英之助宛福澤書翰には、「昨日アメリカより手紙参、殿様も甚さんもぶじ、ソルレイキと申処迄参候よし」とある。この書翰に出てくる「殿様」が昌邁公で、「甚さん」は留学の随行者の小幡甚三郎である。

帰国後、東京府会議員となり、翌年東京府芝区長に就任する。また福澤、小幡の勧めにより藩校進脩館の後身校「中津市学校」を設立し、教員を慶應義塾の中津藩出身者から派遣するなど、旧中津藩に優れた足跡を残した。しかし、米国留学時にかかった病が元で、明治17年(1884年)、30歳の若さで死去した。

栄典

家族

正室は水野忠精の娘。長男の奥平昌恭(1877年6月生まれで幼名・九八郎)は1885年に家督を相続したのち、学習院京都帝大法科等に修学し1909年に欧米漫遊し、のち貴族院議員[2]

脚注

  1. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  2. ^ 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
創設
中津藩
奥平伯爵家

初代:1884年
次代
奥平昌恭