奥平昌猷

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奥平昌猷
奥平昌猷像(自性寺蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 文化10年3月25日1813年4月25日
死没 天保13年9月17日1842年10月20日
改名 勇吉・九八郎(幼名)、昌猷
戒名 潜竜院殿大淵道珍大居士
墓所 大分県中津市新魚町の自性寺
官位 従四位下大膳大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
豊前中津藩
氏族 奥平氏
父母 奥平昌高奥平昌暢
兄弟 軽姫、富之進、昌暢、得之助、圭太郎、
昌猷加藤泰理室、永井尚典室、
生駒親愛、鉄姫、成瀬正住室、
稲葉幾通室、池田慶政、金之助、
生駒親道島津忠寛室、青木一咸
牧野忠直、フチ、隼之丞、菅沼新八郎室、銈姫、内藤頼愛室、操姫、鍼姫
松平忠国正室、昌服
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奥平 昌猷(おくだいら まさみち)は、豊前国中津藩7代藩主。中津藩奥平家11代。

略歴[編集]

文化10年(1813年)3月25日、第5代藩主・奥平昌高の五男として中津で生まれる。天保3年(1832年)11月に兄で第6代藩主の昌暢が死去したため、天保4年(1833年)1月29日に養子として家督を継いだ。直後の11月に百姓一揆が起こるなどしている。

このため、天保6年(1835年)に黒沢庄右衛門を登用して藩政改革を行い、専売の強化を行うなどしている。天保9年(1838年)12月16日に従四位下・大膳大夫に叙位・任官する。天保12年(1841年)に家臣の半知借上を行った。

兄・昌暢と同じく父に先立って天保13年(1842年)9月17日に中津で死去した。享年30。跡を昌暢の遺児で養子の昌服が継いだ。

系譜[編集]