太安万侶
おおの やすまろ 太 安万侶 | |
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太安万侶(菊池容斎画、明治時代) | |
生誕 | 不詳 |
死没 | 723年8月11日(養老7年7月6日) |
墓地 | 太安萬侶墓(奈良県奈良市此瀬町) |
職業 | 文官 |
活動期間 | 奈良時代 |
雇用者 | 元明天皇 |
著名な実績 | 『古事記』編纂 |
肩書き | 民部卿従四位下 |
太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日[1](723年8月11日[2]))は、奈良時代の文官。名は安萬侶[3]、安麻呂[4]とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある[5]。官位は民部卿従四位下[6]。贈従三位。
経歴
慶雲元年正月7日(704年2月16日[2])に従五位下[7]に叙される。
和銅4年4月7日(711年4月29日[2])に正五位上に叙される[8]。同年9月18日(711年11月3日[2])、元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられる。
和銅5年正月28日(712年3月9日)、天皇に、編纂した『古事記』を献上する[9]。
霊亀元年正月10日(715年2月18日[2])には従四位下に叙される[10]。
霊亀2年9月23日(716年10月12日[2])に氏長となる[11]。
養老7年7月7日[12](723年8月11日[2])、民部卿・従四位下で死去[13]。
1911年(明治44年)3月13日、贈従三位に追陞(ついしょう)される[14]。
なお、子孫とされる多人長(おおのひとなが)によれば、『日本書紀』の編纂にも加わったとされる[15]。
太安万侶墓
1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(北緯34度39分55.0秒 東経135度54分25.0秒 / 北緯34.665278度 東経135.906944度)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。墓誌の銘文は2行41字。左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載。墓誌銘全文引用は以下の通り。
左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された[16]。また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定されている[17]。
脚注
- ^ 太安万侶墓誌による。
- ^ a b c d e f g ユリウス暦による。
- ^ 『古事記』序、墓誌名
- ^ 『続日本紀』、『弘仁私記』、『日本紀竟宴和歌』など
- ^ 『阿蘇家略系譜』
- ^ 『続日本紀』巻九による。『古事記』序は正五位上勲五等と記している。
- ^ 『続日本紀』巻三 慶雲元年正月癸巳
- ^ 『続日本紀』巻五 和銅四年四月壬午
- ^ 『古事記』序
- ^ 『続日本紀』巻六 霊亀元年正月癸巳
- ^ 『続日本紀』巻七 霊亀二年九月乙未
- ^ 墓誌では癸亥年(養老7年)7月6日
- ^ 『続日本紀』巻九 養老七年七月庚午「秋七月庚午民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒」
- ^ 〔太安万侶追陞ノ件〕、諸雑公文書(請求番号:本館-4E-018-00・雑02478100)、国立公文書館
- ^ 『弘仁私記』序
- ^ 太安萬侶墓 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 太安萬侶墓誌/癸亥年七月六日在銘/奈良県奈良市此瀬町出土 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
関連項目
- 小治田安萬侶の墓
- 多氏
- 多坐弥志理都比古神社
- 境外摂社・小杜神社の祭神として祀られる