大江維時

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大江維時
大江維時・『前賢故実』より
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 仁和4年(888年
死没 応和3年6月7日(963年7月5日
官位 従三位中納言、贈従二位
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 大江氏
父母 大江千古巨勢文雄
兄弟 維明維望維潔維時
藤原遠忠女、他
重光斉光藤原兼通
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大江 維時(おおえ の これとき、仁和4年(888年) - 応和3年6月7日963年7月5日))は、平安時代貴族学者伊予権守大江千古の三男。官位従三位中納言従二位

経歴

大江氏の血だけでなく、祖父大江音人の門弟であった巨勢文雄を外祖父に持ち、早くからその才能を発揮した文章生になったのは29歳であった[1]が、わずか1年でその上の文章得業生に選ばれている。

延喜21年(921年)に醍醐天皇六位蔵人に任じられているが、その在任中から侍読も務め、延長6年(928年)に蔵人のが評価されて叙爵を受けている。天暦4年(950年)に参議に列すると、天暦9年(955年)に従三位に叙せられ、天徳4年(960年)には73歳で中納言に昇った。

学者としても名が高く、大学助文章博士大学頭を歴任して、醍醐天皇・朱雀天皇村上天皇侍読を務め、「三代の侍読」と称された(『公卿補任』・『西宮記』12臨時已親旧臣薨去伝)。『日観集』、『千載佳句』を編集。また、に留学して中国の兵法『三略』を学び、それを『訓閲集』という120巻の書物に記している。また、日本最古の兵書といわれる『闘戦経』の作者に比定されている。

逸話

  • 記憶力に優れ、平安遷都以降の他人の死没年や屋敷の移り変わりの様子なども把握していたとされる(『続古事談』巻2臣節)。
  • 従兄弟の大江朝綱とはライバル同士であったが、朝綱の子孫である大江匡房が著した『江談抄』(第5-51)には「維時は才学においては朝綱よりも優れていたが、文章においては朝綱の敵ではなかった」と評している。実際、『本朝文粋』に採録された当時の権力者藤原忠平の文書の草案は全て朝綱によるもので、維時の文書は存在しない。
  • 村上天皇の時代、内裏の屏風を飾る漢詩を大江朝綱・橘直幹菅原文時の3人に作らせ、維時に選定させた(『日本紀略』天暦3年条)。この時、菅原文時は黄帝が「洞庭」の地でを開いた故事を詩にして傑作を書き上げたが、維時は「文時は洞庭湖の詩を読んでいるが、黄帝が楽を始めたのは呉の洞庭(太湖に浮かぶ山)である」と指摘して酷評した。結局、他の詩は採用されたものの、文時はこの時の屈辱を死の間際まで恨んだと言う(『江談抄』(巻4-19))。

官歴

以下、公卿補任に拠る。

  • 延喜16年秋(916年-月-日) 文章生
  • 延喜17年(917年) 秀才。
  • 延喜18年正月(918年-月-日) 美濃大掾
  • 延喜21年6月20日(921年7月27日) 補蔵人。文章得業生美濃大掾如元。
  • 延喜22年正月30日(922年3月1日) 近江権少掾
  • 延長2年2月1日(924年3月8日) 式部少丞
  • 延長3年正月(925年-月-日) 轉式部大丞
  • 延長6年
    • 正月7日(928年2月1日) 従五位下。(蔵人労)。
    • 正月19日(928年2月13日) 昇殿
    • 正月29日(928年2月23日) 大学助[2]
  • 延長7年9月23日(929年10月28日) 兼文章博士
  • 延長9年3月12日(931年4月2日) 兼備後介
  • 承平元年7月3日(931年8月18日) 昇殿。
  • 承平3年10月24日(933年11月14日) 兼紀伊権守
  • 承平4年正月7日(934年1月24日) 従五位上
  • 承平5年12月17日(936年1月13日) 兼式部少輔
  • 天慶2年
  • 天慶4年
    • 正月7日(941年2月5日) 従四位下
    • 2月9日(941年3月9日) 昇殿。
    • 3月28日(941年4月27日) 兼三河権守
  • 天慶5年3月29日(942年4月17日) 兼備前守
  • 天慶7年
  • 天慶9年
    • 4月21日(946年5月24日) 昇殿。
    • 4月28日(946年5月31日) 正四位下。(前坊学士労)。
    • 7月17日(946年8月16日) 兼左京権大夫
    • 9月16日(946年10月13日) 改左京大夫
  • 天暦元年6月6日(947年6月26日) 兼美濃守
  • 天暦4年2月1日(950年2月20日) 任参議
  • 天暦5年
    • 正月30日(951年3月10日) 兼近江守。参議如元。
    • 5月22日(951年6月29日) 兼式部権大輔。参議守如元。
  • 天暦9年2月7日(955年3月3日) 従三位
  • 天暦10年正月27日(956年3月12日) 兼伊予権守。参議大輔如元。
  • 天徳2年正月30日(958年2月21日) 止大輔。参議権守如元。
  • 天徳4年
    • 8月22日(960年9月15日) 任中納言
    • 9月16日(960年10月9日) 昇殿。
  • 応和3年6月7日(963年6月30日) 薨去。有勅贈従二位。依三代侍講也。

系譜

脚注

  1. ^ 『日本紀略』延喜16年9月28日条によれば、この時の文章生試の題は「高風送秋」であったとされている。29歳での文章生は当時の他の例と比較するとやや遅いものの、そこから文章得業生への選抜の早さから考えると、維時は抜群の才能の持ち主であったことをうかがわせる(井上、2014年、P83)。
  2. ^ 或いは大学頭。

参考文献

  • 井上辰雄『平安儒家の家 大江家のひとびと』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1265-2 第3章「大江維時」