大江朝綱
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 仁和2年(886年) |
死没 | 天徳元年12月28日(958年1月25日) |
別名 | 後江相公 |
官位 | 正四位下、参議 |
氏族 | 大江氏 |
父母 | 父:大江玉淵 |
兄弟 | 朝典、朝衡、朝綱 |
妻 | 平中興の娘 |
子 | 澄明、澄江、澄景、清胤、江侍従 |
大江 朝綱(おおえ の あさつな)は平安時代中期の公卿、学者、書家。丹後守大江玉淵の子。
同じく参議に至った祖父音人が江相公と称されたことから、後江相公と称された。
経歴
26歳で文章生に及第した頃には既に漢詩人として評価が高く、延喜8年(908年)の渤海使来朝の際に作った漢詩(「夏夜於鴻臚館餞北客」)が『本朝文粋』に採録されている。また、『江談抄』(巻4・74)には彼の漢詩(「賦置酒如淮」)に感銘した讃岐守平中興が自分の娘を娶らせたと記されている。延喜21年(921年)には最難関の方略試に及第している。諸官を歴任後、延長6年(928年)には大内記に任ぜられ、承平3年(933年)には左少弁に任ぜられて弁官に転じ、更に翌年には文章博士を兼ねた。この時期に藤原忠平に重用され、その上表文の多くを作成したとされている。天暦7年(953年)に参議に任ぜられた。
書家としての技量は小野道風と並ぶとされる。また、『新国史』の編纂員として別当にも補任された。
官歴
※日付=旧暦
- 延喜11 年(911年) 文章生となる。
- 延喜16年3月28日(916年5月2日)文章得業生と就り、丹波掾に任官。
- 延喜18年正月12日(918年2月25日) 信濃権掾に遷任。
- 延喜23年正月12日(923年1月31日) 刑部少丞に遷任。
- 延長2年2月1日(924年3月8日) 民部少丞に遷任。
- 延長3年正月30日(925年2月25日) 民部大丞に転任。
- 延長6年
- 延長8年
- 承平3年10月24日(933年11月14日) 左少弁に転任。民部少輔と三河権介如元。
- 承平4年
- 正月7日(934年1月24日) 従五位上に昇叙。左少弁・民部少輔・三河権介如元。
- 12月21日(935年1月28日) 文章博士を兼任。
- 承平6年
- 承平8年1月7日(938年2月8日) 正五位下に昇叙し、左少弁・民部少輔・文章博士・伊予介如元。
- 天慶3年12月6日(941年1月6日) 右中弁に転任。民部少輔・文章博士・伊予介如元。
- 天慶4年
- 1月(941年-月-日) 従四位下に昇叙し、右中弁・民部少輔・文章博士・伊予介如元。
- 3月28日(941年4月27日) 民部大輔を兼任。右中弁と民部少輔を去る。
- 天慶7年4月25日(944年5月20日) 右中弁に遷任。民部大輔・文章博士・伊予介如元。
- 天慶8年10月14日(945年11月21日) 左中弁に遷任。民部大輔・文章博士・伊予介如元。
- 天慶9年
- 4月21日(946年5月24日) 昇殿を許される。
- 11月19日(946年12月15日) 従四位上に昇叙し、左中弁・民部大輔・文章博士・伊予介如元。
- 天暦3年正月24日(949年2月24日) 伊予権守を兼任。伊予介を去る。
- 天暦5年
- 正月30日(951年3月10日) 左大弁に転任。
- 5月22日(951年6月29日) 勘解由長官を兼任。
- 天暦7年9月25日(953年11月4日) 参議に補任。
- 天暦8年3月14日(954年4月19日) 備前守を兼任。
- 天暦9年閏9月19日(955年11月6日) 美濃権守を兼任。備前守を去る。
- 天暦10年正月7日(956年2月21日) 正四位下に昇叙し、参議如元。
- 天徳元年12月28日(958年1月20日) 薨去。享年72。時に参議正四位下行美濃権守。
書跡
- 『紀家集』(きかしゅう)
系譜
参考文献
- 木村卜堂編著『日本と中国の書史』社団法人 日本書作家協会
- 井上辰雄『平安儒家の家 大江家のひとびと』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1265-2 第2章「大江朝綱」