吉良満貞
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 至徳元年(1384年)9月5日 |
別名 | 上総三郎(通称) |
戒名 | 省堅 |
官位 | 治部大輔・左兵衛佐 |
氏族 | 吉良氏 |
父母 | 父:吉良満義 |
兄弟 | 義貴 |
妻 | 渋川義季娘 |
子 | 俊氏、娘(斯波義将室) |
吉良 満貞(きら みつさだ、? - 元中元年9月5日(1384年9月20日))は、南北朝時代の武将。西条吉良氏(上吉良)の祖。西条城主。通称は三郎、左兵衛佐、治部大輔。弟に下吉良氏の祖となる義貴など。妻は渋川義季の娘[1]。子は吉良俊氏、娘(斯波義将室)[2]。
強硬な足利直義方として行動した[1]。のち、幕府に帰参[1]。この頃には、弟の義貴が既に父・満義の後継としており、以後、吉良氏は東西に分かれる[1]。
生涯
足利氏御一家の名門である吉良満義の嫡男として生まれ、父と共に足利尊氏の挙兵に従った。やがて観応の擾乱が始まると満義・満貞父子は足利直義方として戦い、直義の死後も、その養子である直冬や南朝方と結んで尊氏に敵対し、一時は京を制圧するほどの勢いをみせた。しかし、情勢は必ずしも吉良氏が属した陣営に好転せず、やがて満義、満貞の順で幕府へ帰順することとなった。
満貞の幕府帰順の契機は畠山国清の都落ちにあった。正平15年(1360年)、国清による仁木義長の追い落とし後、義長の勢力を取り込んだ南朝方の活動が活発化したため、国清はその責任を問われ関東へと没落する。ところが、三河矢作まで来たところ、行く手を満貞及び仁木義長の三河国守護代であった西郷氏の軍勢に阻まれ、背後の尾張も小川中務に遮られたため、畠山軍は立ち往生となった。幕府は新たに三河国守護となった大島義高に国清援護を命じ、大島勢との合戦に敗れた満貞は、行き場を失って上洛し幕府に帰順することとなったのである。
幕府帰順後の満貞は、南朝に降った前幕府執事の細川清氏や三河国の南朝勢力である鵜殿氏と戦っている[注 1]。また、正平17年(1362年)には観応の擾乱以来没収されていた遠江国引馬荘(静岡県浜松市)を還付され、その翌年には引付頭人に就任、没するまでその職にあって幕政に参与した。
元中元年(1384年)9月5日没。法名は道興寺殿中宝省堅大禅定門。
吉良氏の分裂
足利一門中の名門である吉良氏ではあるが、その名門意識からか、観応の擾乱では本宗家の尊氏と敵対するに至った。しかし正平11年(1356年)に父の満義が没すると、天下の情勢を見極めた被官の一部により、9歳の弟・尊義を奉じて尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏(下吉良)として独立することになった。これを認めない満貞は以降東条勢と合戦に及ぶが、その後、両家の和談が成立し、尊義は東条吉良氏として認められた。だが東条家成立の際の因縁は残り、室町時代を通じて両吉良氏は対立・抗争を繰り返して自らその勢力を弱める始末となった。
脚注
注釈
- ^ 鵜殿氏との合戦は、正平18年(1363年)、三河国竹島(愛知県蒲郡市)で行われているが、吉良方として隣国である遠江国犬居の天野氏も参加している。このことからこの時期、満貞が遠江国守護に就任していたのではないかとする説もある。
出典
参考文献
- 「吉良町史 中世後期・近世」
- 北原正夫「室町期三河吉良氏の一研究」
- 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6。