司馬晏
司馬 晏(しば あん、281年 - 311年6月)は、西晋の皇族。字は平度。武帝司馬炎の第23子。母は李夫人。呉王の地位にあった。西晋の最後の皇帝の愍帝の父である。
生涯
父は西晋の初代皇帝の武帝。第2代皇帝恵帝は異母兄で、第3代皇帝懐帝は異母弟にあたる。
父帝より呉王に封じられ、射声校尉・後軍将軍となる。八王の乱では趙王司馬倫が恵帝を廃して簒奪すると、同母兄の司馬允が反発して挙兵した。しかし司馬允は敗れて殺害され、司馬晏も同母弟のため捕縛された。しかし司馬倫は殺害を勧める臣下の提言を無視して代王(代王に封じられる事は一種の僻地の王のために左遷ではある)に封じて手はかけようとしなかった。301年に司馬倫が殺されると呉王に戻され、さらに上将軍・侍中に任命された。その後も続く八王の乱の中で司馬晏は殺される事なく有力な王について生き延びた。なお、武帝の皇子の中で八王の乱を生き延びたのは懐帝の他は司馬晏だけであった。
このため異母弟の懐帝の時期には太尉・大将軍となる。しかし311年6月、永嘉の乱で漢(後の前趙)の劉曜らの攻撃により洛陽が陥落すると懐帝と共に捕縛され、司馬晏は漢により殺害された。享年31。のちに息子の愍帝より太保を追贈された。
子孫
司馬晏には5人の息子があった。長男は名前不詳で、次男に司馬祥、三男に司馬鄴(愍帝)、四男に司馬固、五男に司馬衍らがいた。この内、四男と五男は洛陽陥落の際に漢により殺され、三男の司馬鄴は西晋の残党により洛陽から逃れて長安で擁立され、313年に懐帝が漢により殺害されると、第4代皇帝愍帝として即位するが、316年に長安が漢により陥落して捕縛され、翌年に殺されて西晋は滅亡した[1][2][3][4]。