司馬乂

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司馬 乂(しば がい、277年 - 304年)は、中国西晋皇族であり、八王の乱の「八王」の一人。士度。初代皇帝武帝の第6子。生母は審美人。

生涯[編集]

当初は長沙王に封じられた。同母兄である楚王司馬瑋が大叔父の司馬亮を殺害するため挙兵した際には兄に協力していたが、賈后により司馬瑋が殺害されると常山王に格下げされた。

その後、大叔父の趙王司馬倫が異母兄の恵帝を廃して皇帝になった際には、従弟の斉王司馬冏、異母弟の成都王司馬穎、遠縁の河間王司馬顒らと共に司馬倫を誅殺した。同年、元の長沙王に戻される。さらに翌年には、今度は専横を始めた司馬冏を排するために、司馬穎や司馬顒と共に再び挙兵し、司馬乂は自ら天子を奉じて司馬冏を誅殺する。

このような仲間割れを繰り返す中で、司馬冏亡き後の主導権を巡って、今度は司馬乂自身と司馬穎・司馬顒が対立することになる。司馬顒らは人をして司馬乂を密かに暗殺しようと図るが発覚する。太安2年(303年)、2人は挙兵したが、恵帝を奉じた司馬乂の軍勢の前に大敗してしまう(この時、攻め手の将であった陸機は責任を問われて殺された)。しかし、司馬乂が籠もる洛陽の城中は食料が欠乏して飢えていた。11月、東海王司馬越の手により捕らえられて金墉城に幽閉され、翌年1月、司馬穎・司馬顒とその部下の張方の手により金墉城で焼き炙り殺された。

長身であり果断、才能もあり部下にも虚心坦懐、名望高かったと『晋書』には好意的な人物評が記されている。

宗室[編集]

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