千田夏光

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千田 夏光(せんだ かこう、1924年8月28日 - 2000年12月22日 本名:千田 貞晴)は、日本の作家日本の慰安婦に関する多数の著作がある。

略歴

薩摩藩士で貴族院議員だった千田貞暁の曽孫として1924年、現・中華人民共和国大連市に生まれる。日本大学中退後、毎日新聞に入社。1957年からフリー作家となる。

著作『従軍慰安婦』

1964年毎日新聞発行の写真集『日本の戦歴』を編集時に「不思議な女性の写真を発見し」「この女性の正体を追っているうち初めて慰安婦なる存在を知った」後[1]1973年には、『従軍慰安婦 正編』を上梓し、その中で「従軍慰安婦」という語を戦後の文書ではじめて使用した。その後、日本や韓国をはじめとする慰安婦問題に大きな影響を与えた。

1985年に同書の解説を書いた秦郁彦は「昭和期の日本軍のように、慰安婦と呼ばれるセックス・サービス専門の女性軍を大量に戦場に連行した例は、近代戦史では他にない。その7・8割は強制連行に近い形で徴集された朝鮮半島の女性だったが、建前上は日本軍の「員数外」だったから、公式の記録は何も残っていない。他に類書がないという意味で貴重な調査報告といえよう」と当時は評価した[2]

『従軍慰安婦 正編』の中には原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」との証言を引き出したとの記述がある[3]。しかし、原の軍歴に間違いがあったため『正論』や『諸君!』で面会した事実に相次いで疑問が投げられた[4]。後に、千田は原の軍歴については、原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている[4]

また、同書において麻生徹男軍医を慰安所発案の責任者であるとほのめかすように描いたことについて、1996年、麻生軍医の娘である天児郁は千田が「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪したと述べている[5]。天児郁の元には、麻生を慰安婦考案者と誤解し、「民族のうらみをはらす」「謝れ」などと娘も含めて罪人扱いする者が大勢訪れたとされる[6]

朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説

1973年に発表した著書『従軍慰安婦―“声なき女”八万人の告発』のp.106には以下のように記述されている。

『挺身隊』という名のもとに彼女らは集められたのである。(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち『慰安婦』にされたのは『五万人ないし七万人』とされている

この根拠を調べた在日朝鮮人運動史研究者の金英達(キム・ヨンダル)によると、以下の1970年8月14日付けソウル新聞の記事を千田夏光が誤読して典拠したとされている[7]

1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5〜7万人と推算されている

このソウル新聞記事[7]における「5〜7万」の推算の根拠は不明であり、確実な資料から判断すると官斡旋による強制性のない朝鮮半島からの女子挺身隊は多く見積もっても4000人ほどと推算されている[8]

1984年に元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)が発表した『日帝支配下の韓国現代史』(風濤社刊)でも「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5 - 7万人が慰安婦として充員された」と述べる(1969年の報道記録からと見られるという)[9]

1991年、朝日新聞では「従軍慰安婦」について、「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と報道しているように、「慰安婦は女子挺身隊の名で連行された」という間違った言説が広まったが、 高崎宗司によれば、それらは「挺身隊という名のもとに彼女ら(慰安婦)は集められた」と書いた千田の著書を依拠しているとし[7]、 また韓国の歴史家である姜万吉は、慰安婦問題を取り扱っている団体が『韓国挺身隊問題対策協議会』などという団体名にしているなど、慰安婦と挺身隊の混同をしていることについて疑義を呈していた[10]

1993年、「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星 (チョン・ジンソン)ソウル大学教授は「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」とした[11]。また「強制連行」の定義を当時の国際条約に従い詐欺暴行脅迫を含めて再定義している。

このような朝鮮人慰安婦を「20万」強制連行したという言説については、李栄薫ソウル大学教授は過度の誇張として批判している[12]

1995年中央大学教授吉見義明は慰安婦の総数を4万5000人~20万人と推算した[13]秦郁彦は慰安婦の総数を1993年には9万人としていたが[14]、1999年には大幅修正して約2万人と推算した[15]

関東軍特種演習での慰安婦徴集証言について

関東軍特種演習(関特演)において慰安婦が強制的に集められたと、千田は原善四郎少佐の証言を紹介した[16]。千田は、

(後方担当参謀原善四郎少佐が)必要慰安婦の数は二万人とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけているのである。ここで、つまり昭和16年には、すでに朝鮮半島は慰安婦の草刈場となっていたことがわかる。実際には一万人しか集まらなかったというが草刈場になった事実は動かせない。

と書いた[17]。また、それ以降のページで原への対面インタビューが掲載されており、著者である千田の「70万人の兵隊に2万人の慰安婦が必要とはじき出した根拠というか基準は何だったのですか」という質問に対して、原が

はっきり覚えていないけど、それまでの訓練つまりシナ事変(日中戦争)の経験から算出した。
二万人と言われたが、実際に集まったのは8千人ぐらいだった。
集めた慰安婦を各部隊へ配属したところ、中には<そんなものは帝国陸軍にはいらない>と断る師団長が出たのです。ところが、二ヶ月とたぬうち、<やはり配属してくれ>と泣きついて来た

と語ったと記載している[18]

秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」での記述

秦郁彦によれば、当時関東軍参謀部第三課兵站班に勤務していた村上貞夫曹長(当時)が「記憶では3000人ぐらいだった」と証言し、手記も残しているという[19]。秦は「総督府の紹介で売春業者のボスに話をつけた村上曹長は、関特演の中止で展開部隊の越冬準備が始まった秋に、続々と楼主に連れられ到着した朝鮮人慰安婦たちを新京の駅頭に迎え、配置表を割り振った。」としており、また「これら慰安婦たちを国境地帯の駅で目撃した憲兵たちの中に、関特演を機に満州でも軍専用の慰安所が誕生したと記憶する人が少なくない。」として木原政雄憲兵(虎頭憲兵分遣隊)や師団経理部の海原治主計将校(後の防衛庁官房長)、森分義臣憲兵等の話を掲載し、国境地帯に慰安所が増え、大都市にも造られていた事を書いている[20]。これらの満州における慰安所の実情の資料的根拠として黒田徳次の『郭亮史』、憲友会の機関誌『憲友』1992年春季号、同80号、満州憲兵の連絡誌である『栄光』に掲載された有馬正徳、磯田利一、稲田登等13人の論稿をあげている[21]。この『慰安婦と戦場の性』が発刊した直後の1999年9月号『論座』で秦は千田夏光と対談し、千田は島田の著作では「一万人」とされているが、原元参謀を探し当てて確かめたところ、「いや八千人」だった述べた事を話し、「その数字を本で書いたら、原参謀の補助者で慰安婦集めの実務をやったという人から「じつは三千人しか集められなかった」と手紙が届いた。」と話している[22]。これに対して秦も「「三千」という数字は他の証言と合わせて検討してみると妥当なところだろうと私も思います。」と答えている[23]

疑義と反論

加藤正夫による調査

この原証言に関する記載について1993年に加藤正夫が調査したところによれば、関特演の予算担当者だった加登川幸太郎少佐や、関東軍参謀の今岡豊中佐らは、関特演での慰安婦動員は聞いた事がないと証言した。他にも 関特演時の関東軍の兵站担当参謀は多忙で自分から集めに行く時間がない。関特演の際の大量の兵士や軍馬の動員は極秘に準備されたもので、慰安婦集めのような目立つことをするわけがない。関特演は二カ月の作戦予定であったので、慰安婦は必要としない。千田は日債銀(旧朝鮮銀行、現あおぞら銀行)に、総督府の「慰安婦」徴発資料があると主張しているが資料などない。当時の満州では朝鮮人経営の遊郭が、多数営業していたため、改めて「慰安婦」を「調達」する必要はない。などの指摘をしている。[4][24]。加藤が千田夏光本人に電話で問い合わせたところ、千田は「島田俊彦の著書『関東軍』(中公新書 1965年)の176ページに“慰安婦二万人動員計画”が書かれており、それが私の説の根拠だ」と答えている。[4]

西岡力による疑義

西岡力は当時の満州には慰安所ではなく、民間の朝鮮人売春婦宿は多数営業していたとしている[24] また、千田の著作では原善四郎元少佐の肩書きは関東軍司令部第三課と書かれているが、加藤の調査によれば原元少佐は関特演当時の所属は関東軍第一課であった。他にも第四課には所属したことはあったが、第三課に所属した事実は確認できなかったとし[24]、その島田の著作も出典はなく、根拠を示していないものだったとしている[24]

中川八洋による疑義

中川八洋は千田の創作と思わしき点を9つあげ、千田夏光が明らかにしなければならない事項として本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープは存在するのか。「父(面長)」を語った韓国人(正編の111頁)は本当に実在するのか。これだけの虚偽創作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。以上3点を挙げている。

秦郁彦による疑義

名乗りでた百数十人の元慰安婦にこの件に該当する申告がでていないと指摘している。

麻生徹男軍医に関する虚偽記載と謝罪

医師の天児都2001年に出版した自著で、夏光の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと指摘した。千田は1996年4月、軍医だった天児の父、麻生徹男が自身の論文で娼楼でない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)の設立を希望したのに、娼婦が不可欠のものと主張していると誤解し、父親を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしたことを娘の天児に謝罪したと言うが、その後も出版元の三一書房と講談社はその部分を改訂しなかった。

天児は、千田の『従軍慰安婦』について、1973出版の「正篇」には63ヶ所、「続篇」には23ヶ所の問題のある記述があるとし、考察に当たる部分に事実の裏づけがなく矛盾が多くあり、このような著書を何ら検証せずに孫引きして事実として扱われた著書が多く出版され、それが海外へ流出して日本叩きの材料となっており、国連人権委員会のクマラスワミ報告では事実と違っている千田の著書を孫引きしたジョージ・ヒックスの『慰安婦』が事実としての供述に使用されていると語っている[25][5][6]

主な著作

  • 従軍慰安婦(双葉社、1973年)
  • 続・従軍慰安婦(双葉社、1974年)
  • 従軍慰安婦・悲史(エルム社)
  • 戦争で涙した女たちのどうしても語りたかった話
  • 従軍慰安婦・慶子 死線をさまよった女の証言
  • 従軍慰安婦 その支配と差別の構図
  • 従軍慰安婦と天皇
  • 従軍慰安婦とは何か 高校生徹底質問!!
  • 従軍慰安婦 声なき声 八万人の告発 双葉社 1973年10月20日
  • 涙痕 オンナたちの戦争
  • ニコニコ売春
  • 植民地少年ノート

脚注

  1. ^ 『従軍慰安婦』1973年 後書き
  2. ^ 『日本陸軍の本・総解説』 自由国民社 1985,p258
  3. ^ 『従軍慰安婦 正編』 [要ページ番号]
  4. ^ a b c d 加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、p55-6
  5. ^ a b 慰安婦問題の問いかけているもの
  6. ^ a b “【歴史戦 第2部 慰安婦問題の原点(1)後半】軍医論文ヒントに「完全な創作」世界に増殖 誤りに謝罪しながら訂正せず”. 産経新聞. (2014年5月20日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052016300015-n1.htm 2014年5月21日閲覧。 
  7. ^ a b c 高崎宗司 (1999, p. 41)
  8. ^ 高崎宗司 (1999, p. 56)
  9. ^ 『日帝支配下の韓国現代史』 [要ページ番号]
  10. ^ 高崎宗司 (1999, p. 42)
  11. ^ 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編)『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 1993年[要ページ番号]
  12. ^ 李榮薫『大韓民国の物語』 永島広紀訳 文藝春秋 2009年。(月号数について[要出典])
  13. ^ 『従軍慰安婦』(岩波新書) [要ページ番号]
  14. ^ アジア女性基金「慰安所と慰安婦の数」
  15. ^ 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年[要ページ番号]
  16. ^ 千田1978,p102-105
  17. ^ 千田1978,p103
  18. ^ 千田1978,p104-5
  19. ^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p97-p101、新潮選書
  20. ^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p97-p101、新潮選書
  21. ^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p97-p101、新潮選書
  22. ^ 『論座』 p12-29、1999-09、朝日新聞社
  23. ^ 『論座』p 12-29、1999-09、朝日新聞社
  24. ^ a b c d 西岡力「よくわかる慰安婦問題」草思社 2007年、p77-84
  25. ^ 天児都 『「慰安婦問題」の問いかけているもの』 石風社 2001年7月 [要ページ番号]

参考文献

  • 高崎宗司、1999、「「半島女子勤労挺身隊」について」、(財)女性のためのアジア平和国民基金 「慰安婦」関係資料委員会(編)『「慰安婦」問題調査報告 1999』、(財)女性のためのアジア平和国民基金 pp. 41-60

関連項目

外部リンク