前野綱宗
時代 | 戦国時代 |
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生誕 |
南朝:元中8年(1391年) 北朝:明徳2年 |
死没 | 嘉吉3年(1443年) |
別名 | 通称:四郎兵衛 |
主君 |
織田常松(織田郷広) 織田久長 織田敏広(?)[1] |
氏族 | 良岑氏流前野氏 |
父母 | 父:前野高康 母:? |
兄弟 | 前野綱宗、前野守久、前野成住、女 |
子 | 前野時正、女 |
前野 綱宗(まえの つなむね)は、戦国時代ごろの武将・土豪[1]。前野家九代目当主。前野時正の父[1][2]。織田伊勢守家の家臣[1]。通称・四郎兵衛。
前野綱宗
尾張国の土豪前野家の当主前野高康の嫡男として1391年に生まれた[1][2]。前野家は、綱宗の父高康の代から綱宗の孫である長義の代まで代々織田伊勢守家に仕えていたとされており、この綱宗も父と同様織田常松(織田郷広)に仕えていたとされている[1]。織田常松と織田郷広は同一人物であったと言われている[1]。だが織田常松と織田郷広を同一人物とする資料は『武功夜話』だけで、『武功夜話』は使用されている語彙に一部現代人にも容易に理解できるものがあり、その信憑性は不確かである(詳しくは武功夜話#資料的価値に対する論争を参照)。
前野氏について
前野氏は、桓武天皇の子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統で、良岑高成(原高成)の子である高長もしくはその曽孫である時綱が尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町〜大口町辺り)に移り住んで前野を名乗ったのが始まりとされている[1][2]。また良岑高成の娘は、平清盛の父である平忠盛の妻であったともいわれ、高成の娘と忠盛の間に平忠度を産んだともされている[3]。