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公孫竜

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  1. 公孫竜(こうそんりゅう、生没年不詳)は中国戦国時代の思想家。は子秉(しへい)。後述する。
  2. 公孫竜(こうそんりゅう、紀元前498年 - ?)は孔子の弟子の一人。は子石。

公孫竜は、古代中国の思想家。の人であり、生没年ははっきりしないが、おおよそ紀元前320年から紀元前250年の間に活躍した。 名家の代表的人物で、「白馬非馬説」が有名である。

初めて名前が登場するのが、昭王に対して非戦を説いたときで、さらに趙の平原君の客となり、恵文王に対しては兼愛を説いたという。この二つは墨家の思想的特長である。

しかし、公孫竜が今日まで名を残しているのは、何といっても論理学の成果によるものである。 代表的なものが「白馬非馬説」で、「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論である。 もう一つ有名なもの(時期的には白馬非馬説より前)が「白くて固い石は手で触っているときには白いということは解らず、目で見ているときには硬いということが解らない。すなわち、白いという概念と硬いという概念は両立しない」(堅白同異)という論である。 この二つの論は明らかに詭弁である。実際に陰陽家鄒衍に「詭弁だ」と非難され、平原君の寵愛を失い、最後は憂死したという。

その後の時代でも公孫竜には詭弁家の印象が強く、あまり良い評価は得られていなかった。 しかし、公孫竜を再評価する動きも次第に現れ始めている。公孫竜が生きていたのは諸子百家の議論が非常に活発な時代であり、それとともに論理学の重要性が認識され始めていた。そのなかで概念と概念とを明確に区別することの重要性を説明するために、白馬非馬説のような極端な話題を持ち出したと考えられる。

ちなみに「白馬非馬説」は『韓非子』にも描かれている。児説という人物が白馬に乗って関所を通る際、「白馬非馬説」を用いて馬の通行税を免れようとするものの、役人が頑として聞かず、結局は税を支払うという話である。

著書として伝わるものに『公孫竜子』があり、『漢書』「芸文志」には全14巻と記述されているが、現存するのは6巻のみである。しかし、この『公孫竜子』が公孫竜本人の手によるものとは考えにくく、当時書かれたものかどうかさえも怪しまれる。

参考文献

外部リンク