佐藤信近

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佐藤信近
時代 江戸時代後期(幕末
生誕 不明
死没 慶応4年(1868年
別名 図書
主君 徳川慶篤
水戸藩藩士 家老、執政
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佐藤 信近(さとう のぶちか)は、幕末水戸藩重臣。通称は図書。いわゆる諸生党の中心的人物のひとり。

概略

徳川慶篤家老として仕え、諸生党の領袖市川弘美(三左衛門)や従弟の朝比奈泰尚(弥太郎)らとともに戊午の密勅返還に反抗した尊王攘夷激派(長岡勢・天狗党)に対しての厳罰を建言している[1]元治元年(1864年藤田小四郎ら天狗党激派が筑波山に挙兵すると(天狗党の乱)、市川・朝比奈らとともに江戸に出て激派を弾劾し[2]、市川・朝比奈らとともに執政に就任する[3][4]。直後、諸生党の筑波勢への過激な対応を鎮派の榊原新左衛門鳥居瀬兵衛らから責められて朝比奈とともに一時免職となった[5][6]。そのため佐藤とともに江戸の諸生党を率い、筑波勢討伐に出陣していた市川らと合流して水戸城に入り[7]、再度家老となって藩内を掌握した[8]慶応2年(1566年)幕府より藩内動乱の責任者として市川・佐藤らとともに切腹を命じられたが、諸生党の抵抗によって朝比奈・佐藤・鈴木重棟(石見守)・大森信任(弥三左衛門)の家老辞職に留まった[9][10]

慶応4年(1868年王政復古がなると、徳川慶篤に市川・鈴木・佐藤・朝比奈・大森への厳罰の勅命が下ったため[11]、市川・朝比奈らとともに脱藩して奥羽越列藩同盟側として会津戦争に身を投じたが[12]、その戦中に会津方面で病死した[13]

出典

  1. ^ 渋沢 1967a, p. 276.
  2. ^ 維新史料編纂會 1983a, p. 279.
  3. ^ 渋沢 1967b, pp. 88–89.
  4. ^ 維新史料編纂會 1983a, p. 290.
  5. ^ 渋沢 1967b, pp. 92–93.
  6. ^ 維新史料編纂會 1983a, p. 331.
  7. ^ 維新史料編纂會 1983a, p. 377.
  8. ^ 維新史料編纂會 1983a, p. 464.
  9. ^ 渋沢 1967b, pp. 391–395.
  10. ^ 維新史料編纂會 1983b, p. 679.
  11. ^ 渋沢 1968, pp. 233–235.
  12. ^ 水戸徳川家 2020, p. 1132.
  13. ^ 水戸徳川家 2020, p. 1180.

参考文献

  • 維新史料編纂會 編『維新史料綱要 復刻版』 5巻、東京大学出版会、1983a。 
  • 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 1巻、平凡社東洋文庫〉、1967a。 
  • 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 3巻、平凡社〈東洋文庫〉、1967b。 
  • 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 4巻、平凡社〈東洋文庫〉、1968年。 
  • 水戸徳川家 編『水戸藩史料』《下編全》吉川弘文館、2020年。ISBN 9784642730938 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』 24巻、東京大学史料編纂所、2005年。ISBN 4130908243