二荒芳之
二荒芳之 | |
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北白川宮家、二荒家 | |
続柄 | 北白川宮能久親王の第5王男子 |
身位 | 伯爵(華族) |
敬称 | 閣下 |
出生 |
1889年3月22日 日本 |
死去 |
1909年8月18日(20歳没) 日本、東京府東京市麹町区・朝倉病院 |
父親 | 北白川宮能久親王 |
母親 | 申橋カネ |
二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月22日 - 1909年(明治42年)8月18日[1])は、日本の伯爵。北白川宮能久親王の庶子で、後にその父子関係が確認されて華族に列せられた。旧姓は山本[2]。
生涯
[編集]北白川宮能久親王の庶子として栃木県に生まれる。生母は側室の申橋カネ。申橋家は栃木県平民で、日光輪王寺宮元家司に申橋姓がある[3]。
1891年(明治24年)、能久親王の信任が篤かった浅間牧場主事の黒岩有哉に密かに預けられ、群馬県吾妻郡長野原町で3年間を過ごしたのち、1894年(明治27年)から応桑村小学校(当時、現・長野原町立応桑小学校)に学んだ[4]。当時は、快活で明朗大胆な性格だった[4]。
1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。父の薨去の後、異母弟である上野正雄と共に親王の子としての認知を嘆願する。宮内省が入念な調査を行ったところ果たして能久親王の五男であることが確認されたため、東京に移り以後北白川宮家で養育される(詳細は北白川宮能久親王の該当節を参照)。
翌1897年(明治30年)7月1日、異母弟:上野正雄とともに、伯爵に叙爵され華族に列せられる[5]。出生地の日光二荒山にちなみ二荒伯爵家を創設した[6]。なお、日光は父がかつて門主をしていた日光山輪王寺の所在地でもある。
1899年(明治32年)、応桑村小学校改築の際には北白川宮家から金一封が下賜され、同家の紋を同校玄関に飾ることが許された[6]。
病気で学習院中等科 (旧制)を中退し、新宿御苑で園芸に携わった。1909年(明治42年)8月18日午後7時49分、麹町区の朝倉病院で、腎臓炎の悪化のため満20歳(数え年21歳)で早世した[1][7]。同月24日、紀尾井町の北白川宮邸を出棺し、青山斎場で葬儀が営まれた[8]。
伊予宇和島藩9代藩主伊達宗徳の九男:九郎が、芳之の異母妹:拡子女王と結婚し、二荒芳徳と改名して二荒家を継いだ。
血縁
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『官報』第7848号「彙報」、明治42年8月21日(NDLJP:2951198/4)
- ^ 森岡清美『華族社会の「家」戦略』索引p.13
- ^ 森岡清美『華族社会の「家」戦略』p.397
- ^ a b 『長野原町誌』 1976, p. 341.
- ^ 『官報』第4199号「授爵叙任及辞令」、明治30年7月2日(NDLJP:2947486/2)
- ^ a b 『長野原町誌』 1976, p. 342.
- ^ 明治42年8月20日東京日日新聞「二荒芳之伯爵逝く」 、『新聞集成明治編年史』第14巻 p.132(NDLJP:1920445/91)
- ^ 明治製版所『写真タイムス』第8号 ページ番号無(NDLJP:1600591/30)
- ^ 『官報』第7726号「叙任及辞令」、明治42年3月31日(NDLJP:2951076/16)
参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 上野正雄 - 異母弟。芳之と同じく能久親王の男子であることが確認され、庶子から華族に列せられた。
外部リンク
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 二荒家初代 1897年 - 1909年 |
次代 二荒芳徳 |