中川州男

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中川 州男(なかがわ くにお、1898年1月23日 - 1944年11月24日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て、1918年5月、陸軍士官学校(30期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。台湾歩兵第2連隊付、歩兵第48連隊大隊副官第12師団司令部付(八女工業高校配属将校)、歩兵第48連隊中隊長、歩兵第79連隊大隊長などを歴任する。歩兵第79連隊赴任の直後、盧溝橋事件の勃発により日中両軍は全面衝突し、歩兵第79連隊にも動員命令が下され、中川は初の実戦を経験する。天津から山西省の保定会戦などでの野戦指揮官としての功績を認められ、連隊長より陸大への推薦を受け、1939年3月、陸軍大学校専科を卒業し陸軍中佐に進級。1941年4月、功四級金鵄勲章を受賞。

独立混成第5旅団参謀を経て、第62独立歩兵団参謀となり、1943年3月、陸軍大佐に昇進。同年6月、歩兵第2連隊長に就任。連隊所属の第14師団が、満州から南方へ転用されることとなり、パラオ諸島へ向かった。歩兵第2連隊はペリリュー島歩兵第15連隊の1個大隊と共に配備され、中川が守備隊長となった。赴任前、中川は夫人に任地と任務を尋ねられた際、「永劫演習さ」(帰還を望めない戦場)とだけ答えた。

1944年9月15日米軍がペリリュー島に上陸、熾烈な戦闘を継続し、昭和天皇から中川部隊へ嘉賞11度、感状3度が与えられた。しかし次第に物量に勝る米軍の前に劣勢を強いられ、11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、中川が自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた。こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たした。中川は自決後、2階級特進し陸軍中将となった。

中川は一度は宇垣軍縮の煽りを受けて配属将校となり、キャリアを絶たれたかに見えたが、その後の日中戦争の開戦により実戦で野戦指揮官としての能力を認められ、40歳を過ぎて陸大に進むなど、エリートとは一線を画す叩き上げ軍人であった。それだけに合理的精神の持ち主で、全島を徹底して要塞化、地下陣地化して兵の保全に努め、兵の過早の玉砕を戒めて出来るだけ多くの米兵の出血を強いるという戦術を取り、米上陸軍を苦しめた。中川の取った組織的な戦法・戦術は、後に硫黄島、沖縄の戦いにおいて参考とされ、米軍に対し効果的な損害を与えることに成功することとなる。

関連項目

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。