中山道伝馬騒動

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中山道伝馬騒動(なかせんどう てんまそうどう)とは、江戸時代の一揆1764年明和元年)閏12月下旬から翌年1月にかけて主要街道の一つであった中山道沿いで発生した一揆。騒動が武蔵国を中心に上野国信濃国と広範囲に及んだこと、領主側の立場でもある村役人が多数参画したこと、最終的には一揆の原因となった要求を幕府側が取り下げたことから、幕府の威信が低下する一因となった。

騒動の背景と経緯

江戸時代には幕府により中山道をはじめとする主要五街道が整備され、公用のための伝馬制が整えられていた。街道添いには行政区画上の村に相当する宿場が成立し、宿場には人馬継立など公用を務める問屋が存在していたが、問屋で人馬継立を賄いきれない場合には助馬制による周辺村落への負担が課せられており、中山道では元禄7年に助郷制が導入された。

中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武地域の百姓には本年貢のほか水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在していたが、幕府は増助郷政策を行い宝暦・天明年間には取り割り当てが増加し百姓負担が増加していた。幕府による増助郷は一方で助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招き、また助郷をめぐり定助郷村と非定助郷村間の対立も発生しており、騒動が発生した明和元年2月には大宮・上尾・桶川三宿の惣代や川田谷村名主高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願している。

また明和元年には朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道・中山道(板橋宿から和田宿までの28宿)沿いの諸宿に対して村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じた。

さらに12月に翌年の日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと各村役人に出頭を求めており、こうした増助郷策が続く中、助郷村では幕府の増助郷に反対する百姓の組織化が起こり、村役人の多くが負担に反発し出頭を断わると、村役人に賛同する農民が熊谷宿鴻巣宿桶川宿などに集結して蜂起、幕府側に抵抗した。騒動は瞬く間に街道沿いに広がり10万人とも30万人とも伝えられる規模に拡大、江戸市中へ飛び火することを恐れた幕府側は、助郷の追加負担を取り下げ沈静化を図った。しかし治安は回復せず、年末から翌年の正月にかけて暴徒が街道沿いの富農を襲撃する打ちこわしを起こし、中山道の機能がマヒする事態となった。

幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。特に関村(現在の埼玉県美里町)の名主遠藤兵内を首謀者として獄門に処している。その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られている。