万里小路春房
万里小路 春房(までのこうじ はるふさ、宝徳元年(1449年)- 永正6年9月11日(1509年10月24日))は室町時代後期の公家。甘露寺親長の長男で当初は甘露寺 氏長(かんろじ うじなが)と称していたが、後に万里小路家を継いで改名した。室は二楽院宋世(飛鳥井雅康)の娘。
寛正2年4月13日(1461年5月22日)に13歳の若さで右少弁に任ぜられ、同4年4月13日(1463年5月1日)に蔵人就任の拝賀を行っており[1]、この時までに後花園天皇の蔵人に補任され、次の後土御門天皇の践祚後も蔵人を務めた。
文正2年1月5日(1467年2月9日:3月に「応仁」と改元)に「万里小路春房」と改名して万里小路家に養子入りする[2]。万里小路家の当主であった万里小路冬房(正二位前権大納言)は隠退の意思が強く、後継者もいないことから同じ勧修寺流でこれまでも同家に養子を入れた事があった甘露寺家から後継者が選ばれたのである[3]。応仁元年9月20日(1467年10月18日:後花園院出家の日)に冬房は従一位に叙されて准大臣宣下が下されると、10月5日(同年11月1日)には院の後を追って出家している。
ところが、文明3年4月29日(1471年5月19日)になって右大弁宰相であった春房は突如、室町幕府の重臣であった伊勢貞親とともに自分の妹婿である近江国の朽木貞綱の所に出奔してそのまま出家するという事件を起こしてしまう[4]。応仁の乱の最中の幕府要人の出奔に加え、甘露寺家の関係者が2人も関わっているこの騒動の原因など詳細は不明である。今泉淑夫は応仁の乱前後の公家社会の閉塞感や春房が万里小路家の保守的な家風に馴染めなかった事に原因を求め、井原今朝男は乱の真っただ中にある室町幕府内部で公家社会[5]を巻き込む政治的内紛があり、春房もそれに巻き込まれたとする。
出家した春房は楽邦院寂誉(らくほういんじゃくよ)、江南院龍霄(こうなんいんりゅうしょう)と称した[6]が、京都や美濃などを拠点として、和歌や実父譲りの蹴鞠などを通じて皇室や摂家・同族の勧修寺流をはじめとする京都の公家社会や文化人と関係を持った他、遣明船にて明に渡航して日明貿易に関わり[7]、朝廷や甘露寺家及びその親族(従兄弟で親友でもあった三条西実隆など)などの経済活動の支援も行っている。文亀2年(1502年)に行われた春日社法楽歌会でも義父の二楽院宋世とともに中心的な役割を果たした。
脚注
- ^ 国立歴史民俗博物館所蔵『五位蔵人初拝五代之記』(甘露寺親長:原著・後西天皇:写)
- ^ 『親長卿記』文明3年5月4日条
- ^ 春房の大叔父にあたる万里小路豊房も甘露寺家から万里小路家に養子に入っていたが、後に養父に実子(万里小路冬房の実父である時房)が生まれたために家督を譲って後に出家している。
- ^ 『親長卿記』文明3年4月29日条
- ^ 万里小路家や甘露寺家などの勧修寺流の公家からは、(公家としての)足利将軍家の家司を多数輩出しており、同家や幕府の動向が勧修寺流の諸家に強く影響を与えていた。
- ^ 「龍霄」の法号は臨済宗黄龍派に由来するとみられる。
- ^ 『実隆公記』文明19年正月3・19日条
参考文献
- 井原今朝男『室町期廷臣社会論』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1266-9 P202-203・253-255・295-296
- 今泉淑夫「江南院龍霄」『東語西話』(吉川弘文館、1994年) ISBN 978-4-642-07428-5