一遍聖絵

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「一遍聖絵」第7巻 四条釈迦堂

一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん) は、伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻国宝

作者

奥書により、1299年正安元年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧円伊が絵を描いた。

概要

独自の踊念仏という信仰を生み出し、全国を遊行して貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めた一遍の活動を忠実に記録し、その活動のようすとともに各地の寺社名所観を取り入れた点は特筆に値する。

全体的に人物を小さく扱い、背景の自然描写に大きな関心が注がれ、四季風景を美しく描いた歌絵は名所図絵的な趣を伝える。

人物や建物の的確な描写には鎌倉時代写実主義的な傾向が強く見られ、山水の描写には中国宋代の影響が指摘される。大和絵の伝統と外来の宋画の力強い表現を加えた作風は独得で、類似の作品が見られることなどから、「円伊派」の存在を推定する説もある。

詞書は、五彩に染めた絹布料紙に、当時の能書家4人の筆で書きつづられる。

長時間たって編集される高僧伝と異なり、一遍死後10年に、一遍が遊行した足跡を再確認しつつ、記録を基に、聖戒が一遍に同行した時衆と共に再踏破した後に書かれた物であり、資料的価値が高い。

異母弟といわれる聖戒が、一遍の生涯の言動を記録に留めておきたいという動機で作成されたものである。ただ、別名「六条縁起」と言われるように、他阿真教の「遊行派」に対して、自らの系統である「六条派」(時宗十二派の一つ。本寺は六条歓喜光寺)が一遍の正統的継承者であることを示そうとした編集意図も推察される。しかし後の遊行派の教団色が強く、一遍と遊行派開祖他阿真教を神格化する『遊行上人縁起絵』に比べると、教団色はさほど強くなく対照的である[1]

現存作品

国宝本は神奈川・清浄光寺蔵(京都・歓喜光寺旧蔵)[2]、全12巻。国宝指定名称は「絹本著色一遍上人絵伝」。第7巻の絵は後補で、元の第7巻は江戸時代後期に歓喜光寺から流出し、原富太郎(原三溪)らの所蔵を経て、第2次大戦後、現在東京国立博物館が所蔵する。

また新善光寺(長浜市)が移転する前の六条「御影堂」が六条道場歓喜光寺に隣り合って位置していた時の縁で、『一遍聖絵』を借り受けて複写し、『一遍聖絵』御影堂本となった。近代に入って流出し、前田侯爵家を経て尊経閣文庫奈良県山林王が所有している。

  • 宗俊が編じた別本もあり、一遍と第二祖(遊行派開祖)の他阿真教の伝記を併せたもので、俗に「遊行上人縁起絵」とよばれている。「縁起絵」からは、遊行派こそが一遍の正統的継承者とする意図が推察される。 この他多くの流布本を残されている。

ギャラリー

一遍上人絵伝 巻第七(東京国立博物館)全巻

脚注

参考文献

  • 大橋俊雄『一遍聖』講談社講談社学術文庫〉、2001年4月。ISBN 406159480X 

関連図書

関連項目

外部リンク