ロバート・ケイツビー

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ロバート・ケイツビーRobert Catesby1573年1605年11月18日)は、 火薬陰謀事件の首謀者として知られる、イングランドの貴族である。馬術と剣術に秀でており、人望のある人物であったと伝えられる。

ロバート・ケイツビー(右から2人目)

生涯

幼少期

ロバート・ケイツビーは、ウォリックシャー州(Warwickshire)ラプワーズで出生したとみられている。父はウィリアム・ケイツビー(William Catesby)、母はアン・スロックモートン(Anne Throckmorton)。兄ウィリアム(William Catesby)は幼くして死亡した。由緒ある家柄で、リチャード3世の治世における有力議員、ウィリアム・ケイツビー(William Catesby)の子孫である。

父ウィリアムは敬虔なカトリック信者で、イエズス会の支持者であった。彼は1581年に、司祭エドマンド・キャンピオンを匿った容疑で、義兄(即ちロバートの伯父)のトマス・トリーシャム(Thomas Tresham、1543年 – 1605年)やウィリアム・ヴォークス(William Vaux, 3rd Baron Vaux of Harrowden、1535年 - 1595年)と共に捕らえられ、以後投獄と釈放とを繰り返す人生を送った。このためウィリアムは、莫大な罰金の支払いを強いられた。

ロバートは、このような父を始め、多くの国教忌避者に囲まれて育った。彼の思想の核の形成には、こうした環境が大きく影響しているものとみられる。

青年期

1586年、ロバートはオックスフォード大学のグロスター・ホール(Gloucester Hall、現ウスター・カレッジ)に入学するが、学位を得る前に退学した。同校では、卒業の際に国王至上の宣誓を求められていたことから、恐らくこれを忌避したのであろうといわれている。その後、ネーデルラントのドゥエイ(Douai)の神学校に通ったとみられる。

1593年、ロバートはウォリックシャー州ストーンリー(Stoneleigh)のプロテスタント貴族トマス・リー(Thomas Leigh)の娘、キャサリン・リー(Catherine Leigh)と結婚した。また、オックスフォードシャー州(Oxfordshire)チャスルトン(Chastleton)、オクソン(Oxon)の莫大な資産を相続した。妻キャサリンとの間には、長男ウィリアム、次男ロバートの2人の息子を儲けた。うちウィリアムは早世している。

「危険人物」として

結婚後しばらくの間、ケイツビーはその信仰に揺らぎを見せる(1595年11月に息子ロバートをイングランド国教会で受洗させるなど)が、妻や父、長男が死亡した頃から、再びカトリックの教えに軸足を置く。国教忌避者として活動する彼を、政府は危険人物と目した。

1596年、彼はジョン・ライト(John Wright)とクリストファー・ライト(Christopher Wright)の兄弟や、従兄のフランシス・トリーシャム(Francis Tresham)と共に逮捕された。この頃、エリザベス1世が病の床にあったことから、政情不安を恐れた政府が先手を打ったのであろう。

1601年第2代エセックス伯ロバート・デヴァルー(Robert Devereux, the 2nd Earl of Essex)が反逆を企てた際、ケイツビーも連座した。拘束されたケイツビーは危うく罪を免れたが、4000マークの罰金刑を課せられた。この罰金を支払うため、彼はある毛織物商にチャスルトンの土地を売却したが、なおも彼には相当な財産と定収があった。のちに彼は、アシュビー・セイント・レジャーズ(Ashby St. Ledgers)で母と暮らし、またモアクロフツ(Morecrofts)とランベス(Lambeth)にある彼の家で過ごしたとみられる。

陰謀

エリザベス1世の死を受け即位したジェームズ1世は、1604年に国教会優遇政策を行う宣言を発した。これに憤激したケイツビーは、ジョン・ライトやガイ・フォークス(Guy Fawkes)ら同調者と共に、上院の爆破を企てた。即ち、開院式に出席する国王ジェームズ1世を、議員もろとも爆殺する計画である。開院式は2度にわたって延期され、そのたびに彼らは足止めを食った。

結局、開院式の開催日はユリウス暦1605年11月5日(グレゴリオ暦では1605年11月15日)と決まり、ケイツビーらは決行に向け、遺漏なきよう準備を進めた。

最期

だが、計画陰謀)は決行直前になって発覚。1605年11月5日未明、点火予定の火薬と共に潜んでいた実行責任者フォークスを治安判事トマス・ナイヴェットが発見。フォークスは捕縛され、議事堂爆破は未遂に終わった。

3日後の11月8日(グレゴリオ暦では11月18日)、ケイツビーはスタッフォードシャー(Staffordshire)のホルベックの家(Holbeache House)を襲撃されて死亡した。

関連項目

外部リンク