ロデスカ・ワイリック

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ロダスカ・ワイリック(Loduska. J. Wirick、1856年6月8日 - 1914年3月30日)は、アメリカ人のキリスト教宣教師(デザィブル派の自給伝道婦人宣教師)で、教育者、看護師。名前の表記は、ローダスカ、ローデスカ、ロドゥスカなど表記の揺れがある。日露戦争では、戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし、献身的な介護に当たった。「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり、日本政府や東京府からも表彰された[1]

生涯

1856年、アメリカ合衆国オハイオ州マンスフィールドにジョゼフ・ワイリックと妻サラの娘として生まれる。貧しい農家で、八人兄弟姉妹の1人[2]。苦学してドレイク大学を卒業した。卒業の直前、1898年、オーストラリアで活動していた宣教師の娘、ベル・ベネットが、宣教師として日本に行く予定になっていた。ところがその前日、地元デモイン川でのボート事故で不慮の死を遂げた。アイオワ州デモインのドレイク大学の学生は、彼女の叶えられなかった夢の実現のために4000ドルの義援金を集め、代わりに日本に宣教師として行く人を募った。そこで名乗り出たのが、ロダスカ・ワイリックである[3]

彼女は、1890年に来日。5年間にわたり伝道活動に従事し、1895年に一時帰国。翌年、1896年再び、来日した。帰国中に、転倒事故があり、アイオワ州メイヨークリニックでの診察で、彼女が癌にかかっていることが判明。彼女は、そのまま高齢の母親に別れを告げ、日本に戻って仕事を続けた[3][4]

再来日後の彼女は、教会を開いて伝道活動をする傍ら、学習院や府立四中(現在の都立戸山高等高校)等で英語を教えたり、多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した[5]。また、当時偏見の強かったハンセン病患者の施設で患者の世話をしたり、四ッ谷鮫河橋スラム街での奉仕活動にも尽くした。1904年、日露戦争が始まると看護師と医師の資格を有する[6]ワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし、献身的な看護に当たった。いつしか、「東洋のナイチンゲール」(Nightingale of the Orient)と呼ばれるようになる。

ロダスカ・ワイリックは、1914年(大正3年)4月3日東京赤坂の病院で死去。享年57歳。染井霊園に埋葬された。

脚注

  1. ^ 染井霊園の墓碑の説明の石碑の文章
  2. ^ GeNi 2019年9月20日閲覧
  3. ^ a b Mark Maxey : Christians in Japan 100 Years (1883-1983) 2019年9月20日閲覧
  4. ^ 武内博『近代西洋の光 ; 来日西洋人と日本洋学者群像』日本古書通信社 2007年゜p.292
  5. ^ 岡田孝一『東京府立中学』同成社近現代史叢書 2004年 p.75
  6. ^ 染井霊園の場所の説明文のママ。ドレイク大学での専攻分野は不明

関連項目

外部リンク