ルーマニア公国

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ルーマニア公国
Principatele Unite (1859–62)
Principatele Unite Române (1862–66)
România (1866–81)
ワラキア公国
モルダヴィア公国
1859 - 1881 ルーマニア王国
Românieiの国旗 Românieiの国章
(ルーマニア公国の国旗) (ルーマニア公国の国章)
Românieiの位置
1859年のルーマニア公国の版図
公用語 ルーマニア語
首都 ブカレスト
大公
1859年 - 1866年 アレクサンドル・ヨアン・クザ
1866年 - 1881年カロル1世
変遷
連合公国成立(オスマン帝国宗主権下) 1859年2月5日
ルーマニア公国へ改称1861年
オスマン帝国から完全に独立1878年7月13日
王政移行1881年3月13日

ルーマニア公国(ルーマニアおうこく、ルーマニア語:Principatele Unite Române)は、1859年ワラキア公国モルダヴィア公国が合併して成立した東ヨーロッパ国家1881年3月13日に、ルーマニア公カロル1世国王に即位して王制へ移行した。

概要

ワラキア公国モルダヴィア公国は、オスマン帝国によるヨーロッパ侵攻によって敗れたが、外交的に屈服し、オスマン帝国宗主権下の自治公国として存続することを許されていた。しかし17世紀以降は、オスマン帝国の衰退により、欧州列強(特にロシア帝国オーストリア帝国)の干渉を受けるようになった。

19世紀に入ると、欧州におけるオスマン帝国の更なる衰退(1817年セルビア公国の成立、1822年ギリシャ第一共和政の成立、1852年モンテネグロ公国の成立など)や欧州におけるナショナリズムの台頭もあり、ワラキアやモルダヴィアでも民族意識が形成され、ワラキア蜂起などが勃発。クリミア戦争においてロシア帝国・オスマン帝国双方が疲弊すると、連合公国として広範な自治を獲得するに至った。

歴史