ポール・キャベ

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ポール・キャベ
Paul Cabet
Paul Gasqによるポール・キャベの胸像
誕生日 1815年2月1日
出生地 フランスの旗 フランス、ニュイ(Nuits)
死没年 1876年10月23日
死没地 フランスの旗 フランスパリ
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ポール・キャベ(Jean-Baptiste Paul Cabet、1815年2月1日 - 1876年10月23日)はフランスの彫刻家である。

略歴[編集]

ヨンヌ県のニュイ(Nuits)の樽職人の息子に生まれた。1834年にディジョンの美術学校で画家のジャン=クロード・ネジョン(Jean-Claude Naigeon)や彫刻家のピエール=ポール・ダルボワ(Pierre-Paul Darbois)に学んだ後、翌年にはパリに出て、パリ国立高等美術学校に進み、彫刻家のダヴィッド・ダンジェフランソワ・リュードに学んだ。1835年にはパリのサロンに詩人のジュリアン・パイエ(Julien Paillet)の胸像を出展した。1836年には投獄されていた社会主義者、ルイ・オーギュスト・ブランキの脱出を企てた嫌疑で検挙された[1]

同じディジョン出身のフランソワ・リュードのお気に入りの学生になり、10年以上助手として働き、1843年にリュードが静養のためイタリアに滞在する間、リュードのスタジオの管理を行った。共和主義的な信念の持主で、ルイ・フィリップ7月王政に批判的であり、1846年にロシアに移り、サンクトペテルブルク聖イサアク大聖堂のレリーフやオデッサの噴水の装飾の仕事をした。

7月王政が倒れ、フランス第二共和政の後、ナポレオン3世がクーデターで政権に就いた後の1852年に帰国し、再びをリュードと共同で働くようになり、リュード夫妻が養育していたリュードの義妹の娘と1853年に結婚した。

1855年のパリ万国博覧会の展覧会で2等のメダルを受賞し、1861年のパリのサロンで1等のメダルを受賞した。1868年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した[2]

パリで61歳で没した。

作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Archives de la police, AA423, événements de 1835 et 1836 dans eclatdebois.org.
  2. ^ archivesnationales.culture.gouv.fr.

参考文献[編集]

  • Pierre Larousse, Grand dictionnaire universel du XIXe siècle, vol. 16.