ビル・スケルトン

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ビル・スケルトン(Bill Skelton、1931年9月4日 - 2016年11月25日)は、ニュージーランド南島グレイマウス出身の元騎手

初期の生活と家族[編集]

5人兄弟全員が騎手になった競馬一家に生まれた。

レーシングキャリア[編集]

1944年に13歳で見習い騎手としてキャリアをスタートさせ、1946年にはダニーデンで15歳のチャンピオンになった。4年連続でニュージーランドの見習いチャンピオンになるなど南島で成功を収め、私生活では1955年イタリア生まれの女性と結婚し、1964年には北島マナワツ・ワンガヌイに転居。1967/68シーズンで124勝を記録し、35年間のニュージーランド記録を更新。隣国のオーストラリアでも活躍し、Daryl's Joyで1969年ヴィクトリアダービーコックスプレートも制し、オーストラリア3歳チャンピオンを獲得。1947年から1979年の間に7度のチャンピオンジョッキーに輝き、2位も10回を記録。トップ4に入らなかったのは4度だけであった。南アフリカ日本シンガポールマレーシア香港でも騎乗し、香港では1975年2月1日ハッピーバレー競馬場で行われた国際騎手招待競走「インターナショナルインビテーションカップ」[1]に参戦。第4競走の騎手招待プレート(1235m・8頭立て)でマネーファーストに騎乗し、レスター・ピゴットイギリスの旗 イギリス)、イヴ・サンマルタンフランスの旗 フランス)、横山富雄(日本)を抑えて優勝[2] [3] [4]1985年引退。

栄誉と賞[編集]

1980年5月にはニュージーランド初の2000勝を達成し、大英帝国勲章メンバーに選ばれる。引退後は1990年にニュージーランドスポーツ殿堂入りを果たす。2006年にニュージーランドレーシング殿堂入り。

その後の生と死[編集]

1994年脳卒中を発症して以降は車椅子生活となる。2012年肺炎になるなど体調が悪化し、2016年11月25日にパーマストンノースで死去。享年85歳。

脚注[編集]

外部リンク[編集]