ネストル・クコリニク

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ネストル・クコリニク
カール・ブリューロフによって描かれたクコリニク
誕生 ネストル・ヴァシーリヴィチ・クコリニク
(1809-09-08) 1809年9月8日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ペテルブルク
死没 (1868-12-20) 1868年12月20日(59歳没)
ロシア帝国タガンログ
職業 劇作家詩人
ウィキポータル 文学
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『神の手は祖国を救いぬ』の台本

ネストル・ヴァシーリエヴィチ・クコリニクロシア語: Нестор Васильевич Кукольник, ラテン文字転写: Nestor Vasilievich Kukolnik, 1809年9月8日 - 1868年12月20日)は、ロシアサンクトペテルブルク出身の詩人劇作家。ロシアの作曲家ミハイル・グリンカと友人でもあった。

生涯

1809年9月8日、ロシアのサンクトペテルブルクにてルシン人で教師、旧貴族であったru:Кукольник, Василий Григорьевичの元に生まれる。

1821年から1829年までウクライナニージン英語版にあるen:Nizhyn Gogol State Universityにて学び、ウィーン大学を卒業し、ポーランドで教師を務めた。

その後、劇作に関心を示して1833年イタリアの詩人についての生涯を描いた[1]処女作『タッソー(Torcuato Tasso)』を著す。また同年、1804年より友人であったグリンカが作曲したオペラ皇帝に捧げた命』の第4幕に新たな詩を付け加えた。

1834年ロマノフ朝に関する歴史劇『神の手は祖国を救いぬ(Рука Всевышнего отечество спасла)』は、第11代ロシア皇帝であるニコライ1世と擁護者達により称賛された[1]

1840年は、ロシアの作曲家であるマクシム・ベレゾフスキーに関する短編小説を著す。

1857年タガンログに定住するようになる。

1868年12月20日、タガンログで亡くなる。

2008年にはクコリニクの生誕200年を記念し、タガンログにある通りがクコリニクにちなんで命名された[2]

脚注

  1. ^ a b 野崎韶夫. “クーコリニック”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月2日閲覧。
  2. ^ Решение Городской Думы города Таганрога №560 от 29.11.2007

参考文献

関連項目

外部リンク