トロツキー査問委員会

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トロツキー査問委員会[1](トロツキーさもんいいんかい、英語: Commission of Inquiry into the Charges Made against Leon Trotsky in the Moscow Trials)はレオン・トロツキー弁護アメリカ委員会英語版が1937年3月に設置した委員会。委員長であったジョン・デューイの名からデューイ委員会英語: Dewey Commission)とも呼ばれる。他の委員にカールトン・ビールス英語版オットー・リューレ英語版ベンジャミン・ストルバーグ英語版がおり、スザンヌ・ラフォレット英語版アルフレッド・ロスマー英語版エドワード・ロス英語版ジョン・チェンバレン英語版カルロ・トレスカ英語版フランシスコ・ザモラ・パディラスペイン語版らが書記を務めた。デューイはこの委員会がトロツキストフロント組織と思われることを恐れていたが、実際に当時一部からそのように見做された[2][3]

数か月の調査ののち、デューイ委員会は1937年9月21日にニューヨークにおいてその調査の過程での発見を公表した[4]

分科会[編集]

先述の5人の委員を含めた分科会によって、1937年4月10日から17日にかけて13回に及ぶメキシココヨアカンレフ・トロツキー宅での公聴会が実施された。この際、弁護士のアルバート・ゴールドマン英語版がトロツキーを弁護した。John Finertyが委員会の法務顧問を務めた[4]

委員会は、モスクワ裁判の過程で形成されていったトロツキーへの告発を明らかにし、同裁判における他の被告らに関するフレームアップに関する疑惑の規模について明らかにした。その結論において、「モスクワ裁判の運営は、先入観のない人々には真実を明らかにしようとする努力はなされていなかったと確信させるようなものだった」と言及している[4]

背景[編集]

レオン・トロツキー弁護アメリカ委員会は1936年の第一次モスクワ裁判のにちに設立された。委員にはフランツ・ボアズ、ジョン・チェンバレン、ジョン・ドス・パソスルイス・ハッカー英語版シドニー・フック英語版、スザンヌ・ラフォレット、ラインホルド・ニーバージョージ・ノバック英語版ノーマン・トマス英語版エドマンド・ウィルソンが含まれた。当時78歳だったデューイは査問委員会の長に就任することに同意した[5]

公聴会は、モスクワ裁判で行われた特定の告発のいくつかが真実ではないことを証明した証拠を明らかにすると主張した。

デューイ委員会はその調査結果を422ページにおよぶ"Not Guilty"(邦題:トロツキーは無罪だ!)と題された報告書として出版した[注 1]。その結論では、モスクワ裁判で非難されたすべての人々の無罪が主張された。要約文において委員会は、外部証拠とは無関係に次のことを発見したと列挙している。

  • モスクワ裁判の運営は、先入観のない人に、真実を確かめる試みがなされなかったと確信させるようなものであったこと。
  • 自白が最も深刻な考慮の対象となるものであるにもかかわらず、自白それ自体に、その入手手段にかかわらず委員会をして真実を著していないと納得せしめるような固有の蓋然性のなさ(improbabilities)が含まれている。
  • トロツキーは、モスクワ裁判での告発や目撃証言のように外国勢力との協定を結ぶように指示したことはなく、トロツキーはソ連における資本主義の回復を決して推奨、計画、または試みなかった。

委員会は、「モスクワの裁判はフレームアップである」と結論付けた。

トロツキー自身は委員会の開始時に次にように言及している。

モスクワ裁判は社会主義の旗のもとに実施された。我々はこの旗を虚言の達人どもに譲ることはない。もしわれわれの世代が全世界に社会主義を確立するには弱すぎたとしても、子孫たちにこの清浄な旗を引き継ぐだろう。当面する闘争は個人・派閥・党派を超越している。これは全人類の将来のための闘争である。肉体的な安らぎと精神的な落ち着きを求める人は誰しも彼を遠ざける。真実よりも官僚に頼る方が好都合だ。しかし、「社会主義」という言葉がうつろな音ではなく正しい生活の内容であるすべての人々よ、進め!脅しや迫害を以ても我々を止めることはできない。たとえ白骨の上であろうと、真実は勝利するであろう。我々はその道を切り開く。運命のすべての厳しい打撃の下でも、私は若き日の最も善い日々のように幸せであろう。なぜならば、 わが友よ、人間にとって最高の幸福とは、現在の搾取ではなく未来への準備だからだ。
Leon Trotsky, 'I Stake My Life', opening address to the Dewey Commission, February 9, 1937[6][7]

トロツキストの歴史家であるピエール・ブルーエフランス語版は、トロツキーは、委員会で秘書のジャン・ファン・ハイエノールトフランス語版から反対のことを思い出されていたにもかかわらず、ソ連内で反対派と接触して「ブロック」を結成した事実(モスクワ裁判における罪状の一つ)は存在しないと、秘書のジャン・ヴァン・エジュノールフランス語版[注 2]の発言と矛盾する、誤った情報を委員会に与えたと記述している[8]。また、アメリカの歴史家であるJ・アーチ・ゲッティ英語版もこれについて、トロツキーと息子のレフ・セドフ英語版は1937年デューイ委員会の時点でブロックのことを知らされていたが、調査ではこの件に触れなかったと指摘している[9]

ニュルンベルク裁判[編集]

この委員会は、約10年後の1946年2月25日付の、ジョージ・オーウェルによって執筆されアーサー・ケストラー、C・E・M・ジョード英語版J・F・ハラビン英語版ジョージ・パドモアジュリアン・シモンズH・G・ウェルズフランク・リドレー英語版チャールズ・アンドリュー・スミス英語版ジョン・ベアード英語版らが署名し、当時進行中だったニュルンベルク裁判は、国際的地位の人物の「歴史的真実と政治的完全性に影響を与える」ための貴重な機会であることを示唆した公開書簡の中で仔細に引用された。具体的には、「モスクワ裁判で告発されたナチ党・政権とトロツキーその他のオールド・ボリシェヴィキの指導者との連絡」に関して、ルドルフ・ヘスを彼のトロツキーとの会談の疑いについて尋問し、ゲシュタポの資料を連合国の専門家の手で調査する必要があるとしている[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ジョンデューイ調査委員会『トロツキーは無罪だ! - モスクワ裁判「検証の記録」』梓澤登訳、現代書館、2009年。
  2. ^ トロツキーの亡命時代に秘書を務めたエジュノールは、回想録『トロツキーとの七年間 - プリンキポからコヨアカンまで』(小笠原豊樹訳、草思社、1984年、新版『亡命者トロツキー 1932-1939』草思社(草思社文庫)2019年)を著している。

出典[編集]

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典. “デューイ”. コトバンク. 2019年10月12日閲覧。
  2. ^ Robert B. Westbrook. "John Dewey and American Democracy". Ithaca, NY: Cornell University Press. 1991. p. 480.
  3. ^ Judy Kutulas. The Long War: The Intellectual People's Front and Anti-Stalinism, 1930-1940. Durham, NC: Duke University Press. 1995. pp. 116-118.
  4. ^ a b c Dewey Commission Report
  5. ^ Beard, Becker and the Trotsky Inquiry, by Harold Kirker and Burleigh Taylor Wilkins c 1961 The Johns Hopkins University Press. American Quarterly, Vol. 13, No. 4 (Winter, 1961), pp. 516-525
  6. ^ David North, In Defense of Leon Trotsky.Mehring Books, 2010; pg viii.
  7. ^ Full text of ~ "I Stake My Life!" - Leon Trotsky's telephone address to the N.Y. Hippodrome Meeting for the opening event of the Dewey Commission on the Moscow Trial, delivered on February 9, 1937
  8. ^ The "Bloc" of the Oppositions against Stalin in the USSR in 1932
  9. ^ J. Arch Getty, "Trotsky in Exile: The Founding of the Fourth International," Soviet Studies, vol. 38, no. 1 (Jan. 1986), pg. 34.
  10. ^ Sonia Orwell & Ian Angu (eds.), The Collected Essays, Journalism and Letters of George Orwell Volume 4: In Front of Your Nose (1945-1950). Penguin, 1980; pg. 143.

関連文献[編集]

外部リンク[編集]