翟魏
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翟魏(てきぎ/たくぎ[1]、388年 - 392年)は中国五胡十六国時代に丁零人の翟遼により、現在の河南省の黄河南岸に建てられた政権である。
歴史
丁零人はバイカル湖付近に居住していた敕勒人が中原に移住した集団を指す呼称である。383年、淝水の戦いの後、黄河流域の丁零人翟斌は新安において前秦への反乱を起こした。388年、丁零人の首領であった翟遼は黄河南岸の滑台(現在の河南省滑県の東)において自ら魏天王を称し魏国を建てた。史家は他の魏政権と区別するために翟魏と称している。
翟魏は黄河を天然の障壁として東晋・後燕・西燕三国間に位置し、しばしば後燕の南辺に侵入している。390年、東晋の劉牢之が翟遼の子である翟釗に敗れたが、同年8月に劉牢之は重要拠点である鄄城を攻撃、翟釗は黎陽に逃亡した。更に劉牢之と朱序夾は滑台を攻撃し、翟遼を破って北に駆逐した。392年、後燕の慕容垂は兵を二手に分けて黄河渡河を実行し、この攻撃により翟魏は滅亡を迎えた。
歴代君主
使用した元号
脚注
- ^ 翟の読みについては、『通志』氏族略に「翟氏、亦作狄、音宅、亦音狄。祁姓、黄帝之後、世居翟地。国語云、翟国為晋所滅、子孫以国為氏。」とあり、タク/テキの二通りがある。ここでは三崎良章『五胡十六国』(東方書店、2002年、ISBN 9784497202017)にしたがい、記事名をテキ魏とする。詳細は本記事のノートも参照。
関連項目
- その他の魏