ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Anakabot (会話 | 投稿記録) による 2022年6月30日 (木) 12:07個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Bot作業依頼#Cite bookの更新に伴う修正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。


ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル
Ti. Sempronius P. f. Ti. n. Gracchus
出生 紀元前217年
死没 紀元前154年
出身階級 プレブス
一族 グラックス
氏族 センプロニウス氏族
官職 アウグル紀元前204年?-154年)
レガトゥス紀元前190年、185年)
護民官紀元前187年もしくは184年)
上級按察官紀元前182年
法務官紀元前180年
前法務官紀元前179年-178年
執政官 I紀元前177年
前執政官紀元前176年-175年
監察官紀元前169年
レガトゥス紀元前165年
執政官 II紀元前163年
前執政官紀元前162年
レガトゥス紀元前162年-161年)
指揮した戦争 第一次ケルティベリア戦争
サルディニア反乱鎮圧
テンプレートを表示

ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルラテン語: Tiberius Sempronius Gracchus Maior紀元前217年頃 - 紀元前154年)は共和政ローマ時代の軍人、元老院議員。プレブスセンプロニウス氏族グラックス家の出自。グラックス兄弟の父親になる。また同名の子と区別するために「大グラックスラテン語: Gracchus Maior)」と称される。また叔父に第二次ポエニ戦争で奴隷軍団を指揮したティベリウス・センプロニウス・グラックスがいる。

経歴

彼の名前が最初に見られるのは紀元前190年で、ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクスローマ・シリア戦争中、兄弟のスキピオ・アフリカヌスの助言によって後顧の憂いを断つためピリッポス5世に使者を送ることになった。グラックスは最も聡明でエネルギッシュな若者として選ばれ、アンフィサからペラまで3日で駆け抜けると、ピリッポスがローマに味方することを確認した[1]紀元前185年にはピリッポスがマケドニア王国再興の動きを見せたため、グラックスとマルクス・バエビウス・タンピルスクィントゥス・カエキリウス・メテッルスの3人が周辺諸国との調停のため派遣された[2]

紀元前184年[3]にグラックスは護民官へ当選したが、在職中スキピオ・アフリカヌスに非難が集中する中で、グラックスはそれまで対立のあったスキピオを救うため二度拒否権を行使したと伝えられている。一度目はスキピオが弾劾裁判を病気を理由に欠席し、兄弟のアシアティクスが上訴[注釈 1]して裁判の延期を願った時で、グラックスはスキピオのこれまでの国家への貢献をあげてそれを認めるように訴えた。グラックスは私情よりも国家を優先させたとして、元老院から非常に感謝されたという[4]。二度目は、アシアティクスが横領の咎で告発され、彼の財産を売却して返還に応じない限り投獄すべしと決定された時で、グラックスはそれに一人反論し、返還に異論はないがあれほど国家に尽くしたアシアティクスの投獄は許せないとし、彼の釈放を命じた。このグラックスの行動に人々は大変喜び、またアシアティクスの財産から横領の痕跡は見つからなかったという[5]。この彼の勇気ある言動に対してスキピオは娘コルネリアとの婚姻を求めることで報いたが、コルネリアは当時は幼かったために実際の結婚生活はグラックスが40代中盤になってからであった。

紀元前179年プラエトル(法務官)に当選する。軍団指揮権を授けられた彼はヒスパニアに赴き、現地のイベリア人の反乱を鎮圧、その功績にて凱旋式を敢行する(第一次ケルティベリア戦争)。

紀元前177年には執政官を務め、サルディニア属州の反乱に対処するために出征、その後もプロコンスル(前執政官)として反乱を完全に鎮圧し、この功績にて2回目の凱旋式を挙げる。

紀元前169年にはケンソル(監察官)となる。この職務に対しての元老院の風当たりは強く、同僚のケンソルが告訴される寸前までいったと言う。グラックスはローマより同僚ケンソルとともにローマ国外に退去する。結局グラックスの民衆からの人気の高さに押されて告訴は取り下げられて終わるが、彼も同僚とともに辞職した。

紀元前163年に彼はコンスルに再当選する。同僚のマニウス・ユウェンティウス・タルナコルシカ属州での反乱を鎮圧したものの急死したため、グラックスは翌年の執政官選挙を行った後コルシカとサルディニアに急行した[6]。この選挙では義理の兄であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムが執政官に選出され、翌紀元前162年、ナシカ・コルクルムはコルシカに出征するが、グラックスは選挙の時、立会人の急死にも関わらず選挙を強行しており、その問題をアウグルたちに指摘されていた。彼は自身がアルグルであり執政官でもあったため激怒しその意見を退けたものの、この年サルディニアにいた彼は選挙前の占いや聖別にも問題があったことを認めたため[7][8]、元老院は選挙をやり直すことを宣言し、ナシカ・コルクルムは辞任させられた。これがナシカ・コルクルムとの間に緊張関係を生み出したかどうかは定かではない。しかし彼らの息子たち(同名の息子ティベリウスプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ)はのちに政治的に対立する間柄となる。

またグラックスはギリシア語に堪能で、紀元前168年ロドス島においてギリシア語で演説を行っている。このようにグラックスは政治的、軍事的にも偉大な功績を残したが、何よりも彼はその人柄によって名声を得ていた。紀元前154年に彼は没するが、その時までにはグラックスはローマ社会を牽引する人材と見られていた。

家庭

ジュゼッペ・カデス画、『グラックス兄弟の母コルネリア』(1776)

紀元前172年にグラックスはかねてから約束されていたスキピオ・アフリカヌスの娘コルネリアと結婚、彼女は18歳、グラックスは45歳ほどであった。このような年齢差があるにも関わらず、結婚はとても幸せなものであったと言う。二人の間に12人の子供が生まれたが、息子のティベリウスガイウス、娘のセンプロニア(スキピオ・アエミリアヌスの妻)の3人だけが生き残った。グラックスは妻をことのほか深く愛した。また彼は彼女を妻として尊重して扱い、ローマ市民は自分達の尊敬するグラックスが丁重に接する妻コルネリアに一目を置いた。夫グラックスが没した時、妻コルネリアは再婚を拒み、息子たちの教育に残りの人生をかけたと言う。

脚注

注釈

  1. ^ プロウォカティオ、判決に不服がある場合、民衆に対してそれをアピールし判定してもらう制度

出典

  1. ^ リウィウス, 37.7.
  2. ^ リウィウス, 39.23-29.
  3. ^ Broughton Vol.1, p.376.
  4. ^ リウィウス, 38.52-53.
  5. ^ リウィウス, 38.60.
  6. ^ Broughton Vol.1, p.440.
  7. ^ キケロ『神々の本性について』2.10-11
  8. ^ キケロ『占いについて』1.36、2.74-7

参考文献

関連項目

公職
先代
マルクス・ユニウス・ブルトゥス
アウルス・マンリウス・ウルソ
執政官
同僚:ガイウス・クラウディウス・プルケル I

紀元前177年

次代
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス
クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌス
先代
アウルス・マンリウス・トルクァトゥス
クィントゥス・カッシウス・ロンギヌス
執政官
同僚:マニウス・ユウェンティウス・タルナ

紀元前163年

次代
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム I(辞任)
ガイウス・マルキウス・フィグルス I(辞任)

補充:プブリウス・コルネリウス・レントゥルス
補充:グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス

先代
クィントゥス・フルウィウス・フラックス
マルクス・フルウィウス・ノビリオル
紀元前174年 LI
監察官
同僚:ガイウス・クラウディウス・プルケル
紀元前169年 LII
次代
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス
クィントゥス・マルキウス・ピリップス
紀元前164年 LIII