サーブ・99
サーブ・99 | |
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1969年2ドア(本国仕様車) | |
1974年EMS(北米仕様車) | |
1979年ターボ室内 | |
概要 | |
販売期間 | 1968年 - 1984年 |
ボディ | |
乗車定員 | 5人 |
ボディタイプ |
2ドア/4ドア セダン 3ドア/5ドア ハッチバック |
駆動方式 | FF |
パワートレイン | |
エンジン |
1,709cc直列4気筒SOHC(トライアンフ製)/ 1,854cc直列4気筒SOHC(自社製1.85) |
変速機 | 4速MT / 5速MT / 3速AT |
前 |
前:独立 ダブルウィッシュボーン 後:固定 トレーリングアーム ワッツリンク パナールロッド |
後 |
前:独立 ダブルウィッシュボーン 後:固定 トレーリングアーム ワッツリンク パナールロッド |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2470mm |
全長 | 4350mm(1968年2ドア) |
全幅 | 1680mm |
全高 | 1450mm |
車両重量 | 1035kg |
系譜 | |
先代 | サーブ・96 |
後継 | サーブ・900 / 90 |
サーブ・99はスウェーデンの自動車製造会社のサーブ社が1968年から84年まで製造、販売していた中型乗用車。航空機の設計思想を取り入れた個性的なデザイン、高度な耐寒性・安全性で1970年代のサーブの堅実な成長を支え、対米輸出(特に東海岸)においても成功を収めた。また、ターボチャージャーを実用車に採用した先駆的存在でもある。
概要
開発は96までのサーブ各車を手がけたシクステン・セゾン(Sixten Sason)の手によって1965年にスタート、翌々年の67年11月に生産型が正式発表され、翌68年秋に市販開始された。当初は2ドアセダンのみ。
99のエンジンは、従来のサーブに用いられてきた2ストローク3気筒やフォード・タウヌス12M用のV4では以後の排気ガス規制をクリア出来ないことが予想されたため、英国トライアンフ製の1750cc直列4気筒が採用された。(トライアンフもこのエンジンでドロマイトという4ドアスポーツサルーンを1970年代に量産、更に同じエンジン2つをV型につなぎ、スタッグという2ドア・スペシャリティーカーまで開発・生産した) このエンジンは当時としてはまだ珍しい電動ファンを備え、サーブ専用のゼニス・ストロンバーグ製のキャブレターでチューンされていた。1972年以降はサーブ自製エンジンに切り替えられ、その後2000ccまでの排気量拡大、ターボチャージャー装着、さらに900の時代になるとDOHC16バルブ化、ガソリンのオクタン価に合わせてエンジンを自動制御するAPCシステム導入など、数々の改良が行われた。後にグローバルスタンダードとなる三元触媒による排気ガス規制対策が最初に行われたのもこのユニットであった。
ボディは、96までの強烈な個性こそないものの、ボンネットの見切り線やルーフラインが前年に発売された日本のスバル・1000にも似たスタイルで、CD値0.37と当時としては空力特性も良好であった。そして、ホイールアーチの上まで回りこんだ前ヒンジの巨大なボンネット、大きく左右に回り込んだ上下に薄く、傾斜角の浅い、軽飛行機のようなウインドスクリーン、ほとんどフラットなサイドシルとそれを可能にするボディ下端まで切り込まれたドアなどが、99に同時代の他車から抜きん出た強い個性を与えていた。しかも、一見特異に見えるこれらの設計は良好な整備性、良好な運転視界、乗降性の高さをもたらしており、決して奇をてらう為のものではなかった(ちなみに、ギアをリバース(AT車ではPレンジ)に入れないと抜けないシフトレバー根元のイグニッションキーも、凍結した坂道で駐車中の車が動き出さないようにとの配慮であった)。ただ、強固なサイドシルがないことは、後継の900の時代になると、エンジン・サスペンション・タイヤ等の進化もあって、ライバルに対するボディ剛性の不足というマイナス面として顕在化することになった。
サーブの伝統に従い、初期モデルは雪道での安全性の確保と燃費の向上のためのフリーホイール機構を備えていた。また、当初よりサーボ付き四輪ディスクブレーキを装備していた。
歴史
16年という長いモデルライフの間、99には絶えず改良が重ねられた。まず、1970年にはダッシュボードが一新され、アメリカ市場を意識したオートマチック車(BW製3速)やフューエルインジェクション付き(キャブ仕様の86馬力から95馬力にパワーアップ)が追加された。また、サーブ初の4ドアモデルも登場した。
71年にはヘッドライトワイパーが装備され、1850ccモデル(キャブレター88馬力とインジェクション97馬力)が登場した。
72年には1750ccエンジンが落とされた。外観ではバンパーの位置が上げられ、ウレタンバンパー(時速5マイルまでの衝撃を吸収)が装備された。この採用は米国安全基準に先駆けたものであり、デザイン的にも不自然さのない優れたもので、規制のない欧州向けにも標準装備された。運転席シートヒーターも採用された。また、スポーティーグレードとして2ドアモデルのみにEMS (Electronic-Manual-Special)グレードが登場した。固められたサスペンションとサーブ自製の1985ccボッシュDジェトロニックインジェクション110馬力エンジンを備え、最高速170km/hを誇った。
73年には1850ccエンジンが廉価版99L専用とされ、他はすべて2000ccとなった。フロントグリルも前年のEMSを追って全車種ともブラックになった。
74年には3ドアハッチバックがコンビ・クーペという名称で追加された。米国ではワゴンバックと呼ばれたこのモデルのテールは伸ばされ、全長がセダンより10cm長くなった。後に、このコンビクーペの後部デザインは後継車900に流用されることになる。
75年には前輪ディスクローター内の専用ドラムを用いていた駐車ブレーキが直接主ブレーキに作動する方式に改められ、燃料タンクも45リッターから55リッターに拡大された。エンジンは2000ccに絞られ、キャブレター100馬力、ボッシュKジェトロニック118馬力となった。
76年にはパワーステアリングやアームレスト付きリアシートを装備したトップモデル、99 GLEが追加された。また、5ドアのコンビ・クーペが追加された。
77年には欧州仕様車のヘッドライト(対米仕様はデビュー以来丸型4灯式)と、テールライトが大型化された。
78年には99ターボが3ドアコンビ・クーペ専用モデルとして登場した。2000ccエンジンの最高出力はギャレット・エアリサーチ製の小径ターボで145馬力に強化され、最高速度は200km/hに達した。性能と燃費の両立を見据えた、ターボチャージャーの実用車への応用としては最初の例で、安全対策や装備充実による重量増加と公害対策による特に対米仕様車のエンジン出力低下がもたらした動力性能低下を解決するために、新エンジンを開発する余力のないサーブ社が選んだ窮余の策であった。しかし、ターボ仕様エンジンの完成度は高く、「60km/hから160km/hまでの速度域で、あらゆる5人乗り乗用車と同等の速さを示した」(豪Wheels誌1978年7月号)などと、当時の専門誌はその出来栄えを賞賛している。
79年には4ドア・2ドアモデルも追加されたが、この年、ますます強化される米国安全基準に対応すべくボディ前後が延長された後継モデル900が登場、99は1980年モデルを最後に米国市場から撤退、欧州市場専用の廉価モデルとしてしばらく存続することになる。
84年に99の前半部と900の後半部をドッキングさせた90が登場、これを受けて99の生産は58万8643台をもって遂に終了した。90は1987年、900(初代)は1993年まで生産を続けたので、99の基本設計は結局25年間生き永らえたことになる。
日本市場におけるサーブ・99
日本には1970年秋の東京モーターショーで初公開され、西武自動車販売の手で輸入されたが、当初の輸入台数は年間十数台程度の微々たるものであった。自動車専門誌CAR GRAPHICは毎年のようにロードインプレッション(71年2ドア、73年4ドア2.0L、74年EMS)に99を採り上げたが、2.0L以外は雪道での記述が中心で、雪国向けの特殊な車種の紹介という色彩が強かった。 77年排ガス規制強化によりサーブは日本市場から一時撤退、78年に51年規制をクリアした99GLEコンビ・クーペで再登場した。パワーステアリング・AT付きのこのモデルは日本市場に比較的適しており、当時著名だった随筆家松山猛が愛用するなどインテリ層の支持を集め、徐々に販売台数も上向きはじめたが、1980年には米国市場のモデル交代に合わせ900ターボ3ドア、GLE5ドアにバトンタッチすることになった。輸入モデルは全て丸型4灯式ヘッドライト、左ハンドルの対米仕様車ベースで、74年頃のモデルの場合、運転席シートベルトを締めないとエンジンが始動出来ないというシステムまで組み込まれていた。
ラリー競技
ラリー競技ではスティグ・ブロンクビストが以前のWRCによる96での活躍から、1977年99EMSで地元スウェディッシュ・ラリーで優勝、1979年は99ターボで同ラリー優勝、更に1980年のスウェーデンラリークロス選手権でもティモ・サロネンらと競り合い優勝している[1]
参考文献
関連項目
脚注
- ^ サーブ-スカニア広報フィルム1980年作品より(内容は動画サイトにあがっている)。