クラスネ - ピドヴォロチスク線

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クラスネ - オデッサ線
基本情報
所在地 リヴィウ州テルノーピリ州
起点 クラスネ駅
終点 ピドヴォロチスク駅
開業 1869年7月12日
路線諸元
路線距離 140 km
軌間 1520 mm(広軌)
電化区間 全区間
電化方式 25 kV / 50 Hz(交流
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線
STR
リヴィウ - ブロディ線
BHF
0.0 クラスネ
ABZgl
ブロディ方面
HST
11.6 スクヴァルシャヴァ
HST
17.1 クニャシェ
BHF
25.5 ソロチウ
BHF
34.2 サルヴァニジャ
BHF
41.1 プルヒウ
WBRÜCKE1
ストルイパ川
BHF
47.4 スボリウ
HST
50.5 トゥストホロヴィー
HST
54.7 ヤルチウジ
BHF
64.3 オセルナ
HST
71.1 ゼブリウ
HST
76.4 クリウジ(テルノーピリ近郊)
BHF
80.8 フルイボチョク・ヴェルイキー
WBRÜCKE1
セレト川
HST
86 ビラ
ABZgl
ABZg+l
テルボーピリ - シェペティウカ線
BHF
89.9 テルボーピリ
ABZgr
コピチンジ、ストルイ方面
LSTR
BHF
140 ピドヴォロチスク
STR
フメリニツキーオデッサ方面
  • 路線距離は1944年の基準[1]

クラスネ - ピドヴォロチスク線: Залізнична Красне–Підволочиськ)はクラスネとピドヴォロチスクを結ぶ、ウクライナ幹線鉄道である。ピドヴォロチスクでは南部のフメリニツキーおよびオデッサ方面の路線がこの路線を継承する。この路線は電化されて、線路のゲージは広軌(1,520mm)である。この路線の運用は、ウクライナの鉄道、特にリヴィウ鉄道(宇: Львівська залізниця)が担当している。

歴史[編集]

ガリツィア・カール・ルートヴィヒ鉄道[編集]

1900年頃のピドヴォロチスク駅舎

この路線とリヴィウ - ブロディ線の建設について、帝国特認ガリツィア・カール・ルートヴィヒ鉄道: k.k. priv. Galizische Carl Ludwig-Bahn, CLB)が建設許可を1867年5月15日すでに獲得した[2]ガリツィア公国の大規模な洪水のため、工事は同年8月に開始されて、この路線はいくつかの段階で開通された。クラスネ - ゾーロチウ区間はブローディ方面鉄道の支線としてともに建設され、1869年7月12日に開通された。1870年12月22日にこの路線はタルノーポールまで延長されて、1871年10月4日に残りのタルノーポール - ポドヴォロチスカ(今のピドヴォロチスク)区間が開業されて、ロシアの鉄道網と連結された[3]。CLBの鉄道はオーストリアで一般的な標準軌で建設されたので、ロシアへ進入るす場合、連続的な列車運行は不可能であった。その故に、貨物はポドヴォロチスカ駅で他の貨車に移られて、旅行者・乗客は列車を乗り換えねばならなかった。大のリロードおよび乗り換え駅がその駅で形成された。

一方ボルキ・ヴィールキー=グルジマローウ地方鉄道(独: Lokalbahn Borki Wielkie–Grzymalów)には1896年3月23日に建設許可が与えられた[4]。その区間はよく年8月12日に開通されて、オーストリア帝国鉄道により運営された。

ポーランド国鉄おとび占領国の鉄道[編集]

第一次世界大戦の終結後、ポドヴォロチスカの国境線西側はポーランド国鉄に、国境線東側はソビエト連邦鉄道: Советские железные дороги, СЖД)にそれぞれ引き受けられた。両国の直通運転は中止されて、列車はそれぞれの国境駅まで運行された。

1939年に第二次世界大戦の勃発直前にソビエト連邦ポーランド東部を占領したため、路線の西部もソ連鉄道の所有となり、すぐに路線はロシア広軌(1520 mm)に変更された。しかし線路の軌間は、1941年に発生したドイツとソ連の戦争の後で、標準軌に戻されて、この路線はドイツ国営鉄道傘下の東部鉄道(Ostbahn)に属することとなった[1]。同時に、戦略的な目的で、既存の単線線路に二番目の線路が追加された。

第二次世界大戦の終戦後[編集]

第二次世界大戦の終結後、この路線はソ連鉄道によって取り戻された。ソ連鉄道は路線全体を広軌に復元した。

1991年にウクライナ鉄道がこの路線を引き受けて、その路線網に組み入れた。リヴィウ方面の接続路線が改修された結果、クラスネ - テルノーピリ区間およびテルノーピリ - フメリニツキー区間は1995年から1998年までの期間で完全に電化された。

参考文献[編集]

  • Bernhard Neuner (2002) (ドイツ語). Bibliographie der österreichischen Eisenbahnen von den Anfängen bis 1918. Band 2. Wien: Walter Drews Verlag. ISBN 3-901949-00-3 

外部リンク[編集]

注釈・出典[編集]

  1. ^ a b Deutsches Kursbuch - Jahresfahrplan 1944/45 - Teil 6 (KBS 501 - 536): KBS 535” (ドイツ語). pkjs.de. 2022年4月7日閲覧。
  2. ^ ÖNB-ALEX - Reichsgesetzblatt 1849-1918: 88. Concessionsurkunde vom 15. Mai 1867” (ドイツ語). alex.onb.ac.at. オーストリア国立図書館. pp. 189–195. 2022年4月7日閲覧。
  3. ^ I. Konta: 1898, Band 1.2, pp. 29–33
  4. ^ ÖNB-ALEX - Reichsgesetzblatt 1849-1918: 66. Concessionsurkunde vom 23. März 1896” (ドイツ語). alex.onb.ac.at. オーストリア国立図書館. pp. 237–240. 2022年4月7日閲覧。