カール・エーベルハルト・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト

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カール・エーベルハルト・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト

カール・エーベルハルト・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルトドイツ語: Karl Eberhard Herwarth von Bittenfeld1796年9月4日 - 1884年9月2日)はプロイセン王国(現ドイツ)の軍人。最終階級は元帥

ドイツ中部テューリンゲン州ノルトハウゼン近郊で、代々軍人を輩出した名家に生まれる(弟のフリードリヒ・アドリアン・ヘルヴァルトハンス・ヘルヴァルトもプロイセン軍の将軍となっている)。1811年、プロイセン軍に入隊し、解放戦争に従軍。リュッツェンの戦い1813年)とパリの戦い1814年)で勇名を馳せた。1848年革命では大佐として王宮の守備にあたる。1852年には少将1856年には中将となり、同年第7師団長に就任。1860年、歩兵大将に昇進し、ヴェストファーレンの第7軍団司令官となった。

1864年デンマーク戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)が勃発するとプロイセン王子フリードリヒ・カール麾下のデンマーク侵攻軍に加わり、6月29日アルス島上陸を指揮した。普墺戦争ではエルベ軍を率いてザクセン軍を撃破し、ボヘミアに侵攻。ヒューネルヴァッサーの戦いおよびミュンヒェングラーツの戦いで勝利した。ケーニヒグレーツの戦いではプロイセン軍の右翼を指揮し、オーストリア軍を包囲することに成功している。1870年普仏戦争に際しては戦場に立つことはなく、後方にて予備兵力の整備と兵站を担当した。

1871年、これまでの軍功を称えて元帥に叙され、1872年にはプロイセン貴族院議員となった。軍を退いたのちはボンで余生を送り、1884年に死去。1889年にはヴェストファーレンの第13歩兵連隊が彼の名にちなんで「ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト」と命名されている。