コンテンツにスキップ

オーガスタス・フレデリック (サセックス公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。しまあじ (会話 | 投稿記録) による 2012年4月16日 (月) 13:12個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

サセックス公オーガスタス・フレデリック

サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子 (Prince Augustus Frederick, Duke of Sussex1773年1月27日 - 1843年4月21日)は、イギリスの王族。

イギリス王ジョージ3世と王妃シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの6男として、バッキンガム宮殿で生まれた。彼は家庭教師による教育を受けた後、兄アーネスト(後のハノーファーエルンスト)らと共にゲッティンゲン大学で学んだ。オーガスタスは気管支喘息の持病があったことから、兄弟達のように陸軍や海軍に入隊することはなかった。彼は周囲から、イングランド国教会の聖職者になるとみられていた。

オーガスタスはイタリアを旅行した際、第4代ダンモア伯ジョン・マーレイの次女オーガスタ・マレーと出会った。1793年に2人はジョージ3世の同意のないまま結婚した。ドイツで学生だった頃のお目付役エルンスト・ツー・ミュンスターがイタリアへ送られ、オーガスタスをロンドンへ連れ戻した。

1794年8月、裁判所はオーガスタスとオーガスタの結婚を、1772年の王室結婚令に照らし合わせて、王の了解を得ていないことから無効だとした。それでもオーガスタスはオーガスタと1801年まで同棲した(1801年以降、彼は議会年金12,000ポンドをもらうためオーガスタとの関係を絶った)。オーガスタは子供達の保護権を保持し、年4,000ポンドの養育費を受け取った。

ジョージ3世は1786年にオーガスタスをガーター騎士とし[1]、1801年にサセックス公、インヴァネス伯、アルクロー男爵へ叙した[2]1831年、オーガスタスは第2代アラン伯の娘で、最初の夫と死別していたセシリアと結婚した。この結婚も王室結婚令に反する王の同意を得ないものだった。セシリアはサセックス公爵夫人とされることはなかったが、彼女自身の称号として1840年にインヴァネス公爵夫人の称号を得た。

1831年、オーガスタスの兄ウィリアム4世は、弟をセント・ジェームズ公園ハイド・パークの管理者とした。1816年にオーガスタスは王立芸術協会(Society of Arts)の理事長に選出されており、この職位を終生務めた。また、1830年から1838年まで王立協会の会長であった[3]

オーガスタスは、女王ヴィクトリアのお気に入りの叔父であった。彼はヴィクトリアの結婚式で、姪を新郎アルバートへ渡す役割をつとめた。

1843年、ケンジントン宮殿で亡くなり、ケンサル・グリーン墓地に埋葬された。インヴァネス公爵夫人セシリアは亡くなるまでケンジントン宮殿内に住み続け、没後に亡夫の隣に埋葬された。嫡子を残さなかったことから、爵位と称号は断絶した。

子女

オーガスタ・マレーとの間に庶子1男1女をもうけた。セシリアとの間に子供はなかった。

  • オーガスタス(1794年 - 1848年)- 多発性硬化症を患っており、生涯のほとんどを寝たきりで過ごした
  • オーガスタ(1801年 - 1866年)

出典

  1. ^ "No. 12756". The London Gazette (英語). 30 May 1786. 2012年4月13日閲覧
  2. ^ "No. 15429". The London Gazette (英語). 21 November 1801. 2012年4月13日閲覧
  3. ^ "Augustus Frederick (1773 - 1843); Duke of Sussex". Record (英語). The Royal Society. 2012年4月13日閲覧